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心理学は正しいのか?  作者: シンリーベクトル


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6/20

人は感情で泣くのではないみたいだ

人は「感情で泣く」のではない


──嬉し泣きが、いちばん分かりやすい証拠


「悲しいから泣く」

「嬉しいから泣く」


泣きは感情の結果だ。

私たちはずっと、そう説明されてきた。


だが本当に、

人は感情が原因で泣いているのだろうか。


嬉しいのに泣く。

安心して泣く。

理由がよく分からないまま、涙が出る。


こうした場面を並べてみると、

その説明には少し無理がある。



泣きは「感情の後」に起きていない


実感として振り返ってみると、

泣くときの順序はこうではない。


感情が十分に生まる

その結果として泣く


むしろ、


何かが起きた瞬間

感情と同時に、涙が出る


に近い。


つまり泣きは、

感情に反応した“表現”ではなく、

感情と同時に走る身体側の出力だと考えた方が整合的だ。



どうしていいか分からないとき、人は泣く


泣きが出る場面をよく見ると、

共通点がある。

• 予測していなかった出来事

• 判断がつかない状況

• 行動を決めきれない瞬間


脳は通常、


状況を理解する

次の行動を決める

動く


という流れで処理する。


だが、この流れが詰まったとき、

つまりどうしていいか分からない状態になると、

脳は別の出口を使う。


それが、泣きだ。


泣きは、

• 判断を一時停止し

• 内部の負荷を外に出し

• 周囲に「処理不能」を伝える


ための、非常用出力と言える。



嬉し泣きが「例外」にならない理由


この考え方を使うと、

嬉し泣きは一気に説明しやすくなる。


嬉し泣きが起きるのは、たいてい次のようなときだ。

• 長く緊張していた状況が終わった

• 悪い結果も想定していた

• 予測よりはるかに良い結末だった


このとき脳内では、

• 「これは良い」というポジティブ評価

• それまでの予測の大規模な書き換え

• 一時的な処理オーバー


が同時に起きている。


評価は確かに嬉しい。

だが更新量が大きすぎて、

行動として処理できない。


その結果、

喜びという感情と同時に、泣きが出る。


泣いているから悲しいわけでも、

嬉しさが暴走しているわけでもない。


ただ、処理が追いついていないだけだ。



なぜ笑う人と泣く人が分かれるのか


同じ「分からなさ」でも、

人は泣く場合と笑う場合がある。


この差も、構造で説明できる。

• 余裕がある

• 軽く処理できる

• 周囲と共有できる


こうした条件があると、

ズレは「笑い」で処理されやすい。


一方、

• 緊張が強かった

• リスクが大きかった

• 軽く扱えない出来事だった


こうした場合、

笑いでは処理できず、泣きになる。


感情の種類ではなく、

処理の重さが反応を分けている。



泣きは、弱さではない


泣くことは、

感情的だ、弱い、未熟だと見られがちだ。


だが実際には、


泣きは

行動が決められない状況で、

脳と身体が取った合理的な回避策だ。


無理に判断せず、

無理に動かず、

一度処理を止める。


そのための反応として、

泣きがある。



結論


人は、感情で泣いているのではない。


感情が立ち上がるような状況で、

泣きが同時に起きている。


悲し泣きも、嬉し泣きも、安心して泣くのも、

すべて同じ構造の上にある。


泣きは感情の結果ではない。

判断不能に陥った瞬間の、身体からの出力だ。


そう考えると、

泣くことは不思議でも、恥ずかしくもない。


それは、人がちゃんと「考えている」証拠なのだから。


赤ちゃんで考えると、この構造はもっとはっきり見える


この話をさらに確かめるには、

赤ちゃんを見るのが一番分かりやすい。


赤ちゃんは、

自分の感情を言語化できない。

出来事を意味づけることもできない。

「悲しい」「嬉しい」と整理する力もない。


それでも、赤ちゃんは泣く。



赤ちゃんは「悲しいから」泣いているのか


一般的には、こう説明されることが多い。


お腹が空いたから泣く

寒いから泣く

眠いから泣く


だが実際の泣きは、

それほど単純ではない。

• 空腹でも泣かないことがある

• 抱っこしても泣き止まないことがある

• 原因が分からないまま泣き続けることも多い


もし泣きが「感情の結果」なら、

原因が解消された瞬間に止まるはずだ。


だが、そうならない場面は珍しくない。



赤ちゃんにとっての「どうしていいか分からない」


赤ちゃんの世界は、

ほとんどが予測不能だ。

• 身体の不快が突然起きる

• どう対処すればいいか分からない

• 自分では何も選べない


つまり赤ちゃんは、

**常に「行動を選べない状態」**にいる。


このとき赤ちゃんに残された出力は、

泣くことしかない。


泣きは、

感情表現ではなく、

処理不能状態のサインだ。



泣きは「要求」ではなく「出力」


ここで重要なのは、

赤ちゃんは


ミルクが欲しい

抱っこしてほしい


と分かって泣いているわけではない、という点だ。


赤ちゃんはまず泣く。

その後、大人が意味づけをする。

• これは空腹の泣き

• これは眠い泣き

• これは甘え泣き


意味を与えているのは、後から見る大人側だ。


泣きそのものは、

意味を持たない生理的出力に近い。



感情と泣きが「同時発生」している証拠


この視点に立つと、


感情があるから泣く


という説明がいかに後付けかが分かる。


赤ちゃんは、

• 明確な感情ラベルを持たない

• 状況評価も未分化

• 行動選択もできない


それでも、

状況負荷が一定量を超えると泣く。


これは、


泣きは感情の結果ではない


という仮説を、

最もシンプルな形で裏づけている。



嬉し泣きとの構造的な一致


さらに興味深いのは、

大人の嬉し泣きと赤ちゃんの泣きが、

同じ構造を持っている点だ。

• 予測できない

• 処理が追いつかない

• 次の行動を決められない


この条件が揃ったとき、

身体は泣きという出力を選ぶ。


違うのは、

評価がラベル化されているかどうかだけだ。



赤ちゃんは泣いて「考えている」


泣いている赤ちゃんは、

何も考えていないように見えるかもしれない。


だが構造的には逆だ。


泣きは、処理が詰まった結果として出る。


それは思考の欠如ではない。

思考が追いついていないサインだ。



結論(検証結果)


赤ちゃんの泣きを考えると、

• 泣きが感情の結果である必然性はない

• 泣きは判断不能時のデフォルト出力

• 感情ラベルは後から付けられる


という構造が浮かび上がる。


つまり、


人は感情で泣くのではない。

感情と同時に、泣きが起きているだけ。


赤ちゃんはその構造を、

最も純粋な形で見せてくれている。


泣きは未熟さではない。

それは、人間が最初に持った

**「処理不能に対する合理的な反応」**だ。


葬式や結婚式で泣くのは、感情が強いからなのか


葬式で泣く。

結婚式で泣く。


一方は「別れ」の場で、

もう一方は「祝福」の場だ。


にもかかわらず、

人はどちらでも泣く。


もし泣きが

「悲しいから」「嬉しいから」という

感情の結果だとすると、

この対称性は少しおかしい。



葬式で起きているのは「悲しみ」だけではない


葬式で泣いている人の内側では、

単純な悲しみ以上のものが起きている。

• もう会えないという現実

• これからの関係性が想像できない

• 自分はどう振る舞えばいいか分からない


つまりそこには、


未来の予測が一気に途切れる瞬間

がある。


日常では、


次に何をするか

どう関係が続くか


が暗黙に分かっていた。


それが、突然なくなる。



葬式の涙は「評価不能」の出力


大切な人を失った瞬間、

脳はこうした矛盾を抱える。

• 気持ちはあるが、行き先がない

• 後悔も感謝も未完了

• 正しい行動が定義できない


これは「悲しいから泣く」というより、


どう行動すればいいか分からない状態に落ちる

と表現した方が正確だ。


泣きは、

その判断不能を身体で出力したものになる。



結婚式で泣くのは、なぜか


次に結婚式を見てみる。


結婚式で泣く人は、

必ずしも当事者だけではない。

• 親

• 友人

• 参列者


感情の距離が違う人たちが、

同時に泣くことも珍しくない。


これは、


嬉しいから泣く


では説明しきれない。



結婚式で起きている「予測の書き換え」


結婚式では、

• これまでの関係が終わり

• 新しい関係が始まる


その切り替わりが一気に起きる。


親にとっては、

• 守る役割の終了

• 関係性の再定義


友人にとっては、

• 日常の距離感の変化

• これまでの時間の確定


つまり、

未来の前提条件が一瞬で書き換わる場だ。


良いことではあるが、

軽く処理できる更新ではない。



結婚式の涙も「喜びの表現」ではない


結婚式での泣きは、

• 喜び

• 安心

• 寂しさ

• 誇らしさ


が混ざっている。


感情が一つに定まらない。


これは、

評価が追いついていない状態を示している。


つまりここでも、


感情が原因で泣いているのではなく、

処理が追いつかない状態で泣いている。



葬式と結婚式の共通点


場の意味は正反対だが、

構造は同じだ。

• 長く続いていた関係が終わる/形を変える

• 未来の行動が一時的に見えなくなる

• 正解の振る舞いが一つに定まらない


この条件が重なるとき、

人は泣く。


それが、

• 悲しい別れでも

• めでたい門出でも


同じ反応を生む理由だ。



なぜ「感情的な人」だけが泣くわけではないのか


葬式や結婚式で泣くのは、

感情表現が得意な人だけではない。


むしろ、

• 普段は理性的

• あまり泣かない

• 感情を抑えるタイプ


の人ほど、

こうした場で泣くことがある。


これは、

感情の問題ではなく、


構造的に処理不能な場に置かれるからだ。



結論(追加検証)


赤ちゃん、嬉し泣き、

そして葬式と結婚式。


すべてに共通しているのは、

• 行動が選べない

• 判断が一時停止する

• 予測が切り替わる瞬間


このとき、

人は感情とは別に、

泣きという身体出力を起動する。


だから泣きは、

• 悲しみの証明でも

• 喜びの証明でもない


「いま、この状況は簡単に処理できない」

という人間の合理的な反応だ。


葬式でも、結婚式でも、

人が泣くのは自然だ。


それは感情に負けたからではなく、

人がちゃんと、状況を受け止めている証拠だからだ。


大人になるにつれて泣かなくなるのも、同じ構造で説明できる


「大人になると泣かなくなる」

これはよく言われるが、

理由は「我慢を覚えるから」でも

「感情が鈍くなるから」でもない。


処理できる状況が増えるからだ。



泣きは「処理不能」のときに出る出力だった


ここまでの検証で見えてきたのは、

泣きが出る条件は一貫しているという点だ。

• 行動が選べない

• 正解が定まらない

• 予測が立たない

• 状況の更新が重すぎる


このとき、

判断系が一時停止し、

身体が先に出力する。


それが泣きだった。



大人になると何が変わるのか


大人になるにつれて、人は次のものを獲得していく。

• 状況のパターン

• 過去の経験による見通し

• 「こうすればいい」という仮の正解

• 泣かずに済ませるための行動テンプレート


つまり、


完全には分からなくても、

とりあえず動ける状態が増える。


行動が決まれば、

泣きは出る必要がない。



泣かない=平気、ではない


ここで重要なのは、


大人が泣かない

感情的な負荷がない


ではないという点だ。


多くの場合、

• 不安はある

• 動揺もしている

• 理不尽さも感じている


それでも泣かないのは、


「どうするか」だけは決められているから。


処理が回っている限り、

泣きという非常出力は起動しない。



泣かなくなるのは「我慢」ではなく「分割処理」


大人は、状況をそのまま一気に受け取らない。

• 今やること

• 後で考えること

• 無視していい部分


を無意識に切り分ける。


この分割処理ができるようになると、

負荷は一時的に下がる。


赤ちゃんや子どもは、

これができない。


だから一気にオーバーフローし、

泣きになる。



それでも大人が泣く瞬間がある


大人でも泣く場面がある。

• 葬式

• 結婚式

• 大きな失敗

• 長年張り詰めていた状況の崩壊


これらは共通して、

• 経験でも処理しきれない

• テンプレが効かない

• 未来の前提が壊れる


分割処理が追いつかない状況だ。


だから、年齢に関係なく、

泣きが再び起動する。



泣かなくなったのではなく「使わなくなった」


正確に言うなら、


大人は泣けなくなったのではない。

泣く必要がある場面が減っただけだ。


泣きは、

• 未熟さの証拠

• 感情コントロールの失敗


ではない。


処理不能時の最終手段として、

今もちゃんと残っている。



結論(検証の統合)


赤ちゃんはよく泣く。

子どもは状況次第で泣く。

大人はあまり泣かない。


この違いは、

• 感情の量

• 心の強さ

• 性格


の差ではない。


「状況を処理できるかどうか」

その経験値の差だ。


だから、

大人が泣くときは珍しい。


そしてそのときの涙は、

たいてい正当で、重い。


それは感情に負けたからではなく、

人として、処理を全力でしている証拠なのだから。




映画を観て泣くのは、感情を表せないからかもしれない


映画を観て泣いた経験は、多くの人にあると思う。


悲しいから泣いた。

感動したから泣いた。


そう説明されることが多いが、

本当にそれだけだろうか。



映画で泣く場面には、ある共通点がある


映画を観て涙が出る場面を振り返ると、

必ずしも「悲劇」や「不幸な結末」ばかりではない。

• 報われた瞬間

• 誰かが黙って耐えた場面

• 言葉にしない選択が描かれたとき

• 正しさが一つに決まらない結末


むしろ共通しているのは、


どう感情を表していいか分からない瞬間

ではないだろうか。



映画は「反応を決めなくていい」特殊な場


現実では、感情が動いたとき、

私たちは同時にこう考える。

• どう振る舞うべきか

• 何を言うのが正解か

• 表に出していい感情か


だが映画の中では、

それを考える必要がない。

• 介入できない

• 決断を求められない

• 行動を選ばなくていい


つまり映画は、

判断不能な状態だけを安全に体験できる場だ。



判断できないとき、人は泣く


これまで見てきたように、

泣きは感情の結果ではなく、


行動や態度を決めきれないときに起きる身体の出力

と考える方が整合的だ。


映画では、

• 感情は立ち上がる

• しかし行動は存在しない

• 表し方を選ぶ必要もない


結果として、

処理しきれなかった部分が

そのまま涙として出る。



なぜ一人で観る映画は泣きやすいのか


映画館や自宅で、

一人で観ると泣きやすい理由もここにある。

• 周囲に合わせる必要がない

• 「泣いていいか」を判断しなくていい

• 社会的な役割を一時的に外せる


判断が不要になるほど、

泣きという反応は出やすくなる。



共感しているから泣く、ではない


映画で泣くことは、

「共感力が高い証拠」と言われることがある。


だが本質は少し違う。


共感した結果、

どう扱えばいいか分からなくなっている

状態なのではないか。


感情が強いから泣くのではない。

感情を一つに定義できないから、泣く。



結論


映画を観て泣くのは、

感情に流されているからではない。


感情が複数立ち上がり、

どれを表に出せばいいか決められない状態を、

安全に体験しているからだ。


泣きは、感情表現ではない。

判断が止まった瞬間に出る、

人間の自然な反応だ。


だから映画で泣くことは、

弱さでも、感傷でもない。


それは、

ちゃんと考えてしまった結果なのだ。

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