決定麻痺の実験は本当にジャムで妥当だったのか?
決定麻痺の実験は、本当にジャムでよかったのか?
ある有名な心理実験がある。
スーパーマーケットで、
ジャムを「6種類」並べた場合と
「24種類」並べた場合を比べた実験だ。
結果は、種類が少ない方が購入率は高かった。
決定麻痺は「選択肢が多いから」ではない
──これは一つの仮説である
「選択肢が多いと、人は決められなくなる」
心理学では、いわゆる“ジャムの実験”を根拠に、
そう説明されることが多い。
だがここでは、
その解釈自体が簡略化されすぎている可能性を提示したい。
以下は断定ではない。
決定麻痺を、別の角度から再構成するための仮説である。
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人は、タバコ棚では麻痺しない
コンビニには、数えきれない種類のタバコが並んでいる。
それでも喫煙者は、ほとんど迷わない。
この事実だけで、
「選択肢が多い=決められない」
という単純な因果は崩れる。
タバコ選択には、次の特徴がある。
• 目的が明確(ニコチン摂取)
• 評価軸が経験で固定されている
• 失敗しても戻れる
• 予測に使うデータが十分に蓄積されている
ここでは、
判断に使われる内部データが“曖昧ではない”。
そのため、
比較が一瞬で終わる。
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ジャム選びで起きていること
一方、ジャムは違う。
多くの場面で、ジャムは
**「家族で食べるもの」**として選ばれる。
ここで、選択は次のように変質する。
• 評価主体が複数になる
• 味覚だけでなく空気や関係が評価対象になる
• 失敗の影響が長期間続く
• 買った人が暗黙の責任を負う
つまり、
「正解が何か分からないまま、予測を強いられる」。
ここで使われる予測データは、
• 家族全員の嗜好(曖昧)
• 空気が悪くなるかどうか(曖昧)
• 数週間後の朝食の雰囲気(曖昧)
と、不確定要素だらけだ。
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決定麻痺とは何か(仮説)
この視点から見ると、
決定麻痺とは、
選択肢が多すぎて処理できない状態
ではなく
予測に必要なデータが曖昧すぎて、更新できない状態
と定義し直せる。
脳は予測装置だ。
だが、入力されるデータが曖昧なままでは、
• 比較しても差が出ない
• 正解条件が定義できない
• 更新してよいか判断できない
結果として、
行動が停止する。
これは失敗ではない。
むしろ、不完全な予測で突っ込まないためのブレーキだ。
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「売れてます」というポップの正体
だからこそ、
「このジャムが売れてます」というポップは効く。
あれがしているのは、
• 曖昧な予測データを
「他人の選択」という1点情報で上書きすること
• 正解条件を
外部から強制的に確定させること
味の説明ではない。
曖昧さの削減装置だ。
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個人消費では、なぜ起きにくいのか
同じジャムでも、
• 自分一人で食べる
• 気に入らなければ自分だけが困る
この場合、必要な予測データは激減する。
評価主体も、責任も、結果も、
すべて自分の中で閉じる。
だから多くの場合、
決定麻痺は起きにくくなる。
※もちろん、高額商品や自己表現が絡む場合は例外もある。
ここでは一般的傾向として述べている。
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結論(暫定)
この仮説が示すのは、
人は「選ぶのが苦手」なのではない。
曖昧なデータで未来を予測することが苦手なのだ。
決定麻痺とは、
能力不足ではなく、
予測条件が整っていない状態で誠実に立ち止まっている結果。
もし決められないなら、
性格を疑う前に、
• 予測に使っているデータは何か
• それは曖昧すぎないか
そこを疑ってみてもいい。
それだけで、
選択は驚くほど軽くなることがある。
自分の人生だから自分で決めろ」が、最も厄介な罠
ここまでの話を踏まえると、
少し意地の悪い結論に行き着く。
人生の重要な選択は、そもそも「自分一人の選択」になっていない。
それにもかかわらず、
私たちはこう言われ続ける。
自分の人生なんだから、自分で決めろ
この言葉は一見、主体性を尊重しているように見える。
だが構造的には、かなり無茶な要求だ。
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評価は一人、責任は全員分
就職、結婚、進路、住む場所。
これらの選択では、
• 結果は自分が引き受ける
• だが評価は
• 親
• 配偶者
• 子ども
• 上司
• 世間
• 未来の自分
全方位から飛んでくる。
つまり、
• 判断は一人でしろ
• でも納得は全員分用意しろ
という状態。
これを冷静に見ると、
最初から最適化不能な問題だ。
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「後悔しない選択」は存在しない
多くの人が迷うとき、
頭の中でこう問い続けている。
• これを選んだ未来の自分は後悔しないか
• 失敗したとき、納得できる理由を用意できるか
だがここに、構造的な破綻がある。
未来の評価者である自分は、
今とは別のデータを持っている。
• 景気
• 健康
• 人間関係
• 社会状況
それらが変われば、
「正解」の基準も変わる。
つまり、
後悔しない選択を今つくることは不可能だ。
それでも人は、
そこを予測しようとして止まる。
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決定麻痺は「失敗回避」ではない
ここで重要なのは、
決定麻痺は
「失敗したくない」からではない、
という点だ。
正確には、
失敗したときに、
どう扱われるかが予測できない
この不確実性が、人を止める。
• 怒られるのか
• 見下されるのか
• 同情されるのか
• 笑われるのか
結果そのものより、
その後の関係性の変化が見えない。
だから、決めない。
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では、どうやって人は決めているのか
実は多くの場合、
人はこうして決めている。
• 「普通はこうするよね」
• 「みんなそうしてる」
• 「とりあえず無難な方」
これは思考停止ではない。
評価主体を一気に集団へ逃がす技術だ。
失敗しても、
「自分だけが間違えたわけじゃない」
と言える状態を作る。
このとき、人はようやく動ける。
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仮説としての結論
ここまでを仮説としてまとめるなら、
人は、
人生の選択を恐れているのではない。
その選択が、どんな評価構造に置かれるかを恐れている。
決定麻痺は、
主体性の欠如ではない。
社会的文脈を過剰に読み取れてしまう知性の副作用だ。
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最後に
もしあなたが今、
就職や人生の選択で動けなくなっているなら、
それは弱さではない。
あなたはただ、
一人で決めるには大きすぎる問題を、
一人で処理しようとしているだけかもしれない。
必要なのは、
「もっと覚悟を決めること」ではなく、
• 評価主体を切り分けること
• 仮決定にすること
• 「全員を納得させる前提」を壊すこと
それだけで、
世界は少し動き出す。




