一緒に寒がる、という温度
この話に、大きな衝突はありません。
誰かが怒鳴ることも、決定的な言葉が投げつけられることもない。
あるのは、
少し寒い部屋と、
善意の言葉と、
それを受け取る側の、言葉にできない違和感だけです。
「安心している」
「気が利く」
「一緒に寒がる」
どれも正しく、どれも優しい。
それなのに、なぜか胸の奥が冷える。
この第四話は、
正しさでも、思いやりでも埋まらない“温度差” を描いています。
誰かの期待に応えることと、
自分の感覚を守ること。
その間で揺れる一人の女性が、
まだ答えのない問いを抱えたまま、立ち尽くす物語です。
義母の家は、冬になると独特の寒さがあった。
木造の隙間風。暖房はついているはずなのに、どこか芯が冷える。
「一人暮らしで、石油ヒーターだと火事とか危ないじゃない?
だから、暖房つけてるんだけど、なかなかきかなくてね。」
義母はそう言いながら、ひざ掛けを膝に広げる。
厚手のセーターに、さらにベスト。
“寒さと折り合いをつける”装いだった。
水野は、コートを脱ぎながら室温を気にした。
温度計はない。感覚だけが、そこにある。
「みさきさん、寒くない?26度にあげようかしら?」
「いえ、大丈夫です」
反射的にそう答えた自分に、水野は少し驚いた。
本当は、足先が冷えている。
居間のこたつに入ると、義母が笑う。
「若い人は、寒さに強いのねえ」
――違います。
そう言いかけて、飲み込む。
昼食のあと、湯気の立つお茶を前に、義母は何気なく言った。
「みさきさんって、しっかりしてるわよね」
水野は、小さく会釈した。
「うちの息子、放っておくと何もしないから。
ちゃんと考えてくれる奥さんで、安心してるの」
安心。
その言葉は、
柔らかい毛布のようでいて、
水野の肩に、ずしりと乗った。
夫は、隣で笑っている。
「まあ、俺が寒がりだからさ」
「そうそう」
義母は頷く。
「寒いって言えば、すぐ何か用意してくれるでしょ。
電気毛布なんて、気が利いてるわよ」
水野の指が、カップの縁をなぞった。
「でもね」
義母は、少し声を落とす。
「男の人って、“考えてもらう”より、
“一緒に寒がってくれる”方が嬉しかったりするのよ。若い頃が懐かしいわ。」
その言葉が、静かに刺さった。
――一緒に、寒がる。
「正しいかどうかより、“一緒にいる感じ”が大事なの」
義母は、善意で微笑んでいる。
水野は、笑えなかった。
帰り道。
外は、吐く息が白くなるほど冷えていた。
「悪気はないから」
夫はそう言った。
「母さん、ああいう人だから」
「うん」
水野は頷く。
でも、胸の奥が、冷えたままだった。
――一緒に寒がる。
――正しさより、感じる。
それは、水野がずっと避けてきた領域だった。
週明けの夜、水野は友人と電話をした。
外は雪が降り始めている。
「夫婦なんてさ、寒かったら毛布取り合って、笑ってればいいんじゃない?」
友人は、軽い調子で言う。
「論理とかさ、仕事だけで十分でしょ」
水野は、言葉を探した。
「でも……ちゃんとした方が、長く続くと思わない?」
「続くよ」
友人は即答した。
「適当でも。むしろ、その方が折れない」
適当。
折れない。
電話を切ったあと、水野はリビングに座った。
足元には、あの電気毛布。
夫が使うために買ったもの。
今日は、夫はまだ帰っていない。会社の飲み会。
夫のいない家は久しぶりだ。
水野は、そっとスイッチを入れて、自分の足にかけた。
じんわりと、温かさが広がる。
――正しい使い方だろうか。
――これは、合理的だろうか。
そんな問いが浮かんで、消える。
温かい。
それだけは、確かだった。
水野は気づく。
義母の言葉も、友人の言葉も、夫の言葉でさえ、
どれも「間違い」ではない。
でも、どれも、自分の答えではない。
論理を手放せと言われるのも、
感情に寄れと言われるのも、
どこか他人の温度だ。
――私は、どうしたい?
答えは、まだ出ない。
ただ、水野は初めて思う。
「わからないままでいる寒さ」を、
誰かと一緒に感じることも、
夫婦なのかもしれない。
その夜、水野はエアコンを消した。
電気毛布だけが、静かに、足元を温めていた。
義母の言葉も、友人の言葉も、夫の言葉も、
どれも間違ってはいません。
むしろ、どれも
「こうしたら、うまくいくよ」という
長年の経験から生まれた、実感のこもった助言です。
けれど水野は、
そのどれを聞いても、少しずつ冷えていきます。
それは、
誰かの正解が、自分の体温と合っていない からです。
論理を使いすぎても、
感情に寄りすぎても、
そこには必ず「誰かの温度」が混ざる。
水野がこの話で初めて辿り着いたのは、
「どうすればいいか」ではありません。
「わからないままでいる寒さを、
誰かと一緒に感じることも、関係なのかもしれない」
という、仮の場所です。
エアコンを消し、
電気毛布だけで過ごす夜は、
不完全で、合理的でもなく、
それでも確かに“自分の温度”でした。
答えは、まだ出ません。
けれど、他人の温度ではない問いを持てたこと自体が、
この物語の小さな前進なのかもしれません。




