感情を差し出した夜
「考えすぎないほうがいい」
「感じたまま話せばいい」
そう言われたとき、
それができない自分は、どこか間違っているのだと思ってしまう。
この第三話は、
“正しさ”を脇に置き、
“論理”を脱ぎ、
それでもなお、うまくいかない夜を描いています。
努力していないわけではない。
歩み寄っていないわけでもない。
ただ、「どうすればいいのか」がわからない。
考えることをやめたら、答えに近づけるのか。
感情を差し出せば、通じるのか。
その問いに向き合おうとした、一日の記録です。
水野は、その日は何も考えないと決めていた。
理由を整理しない。
結論を用意しない。
「円満」という言葉も、今日は棚に上げる。
――今日は、感じたまま話す。
それが、夫の言う「共有」なのだとしたら。
論理を脱いだ自分で向き合えば、何かが変わるかもしれない。
夕方、夫が帰宅したとき、水野はキッチンに立っていた。
献立は、特に意味のないものだ。
栄養バランスも、時短も、今日は考えていない。
「おかえり」
声の高さを、意識して少しだけ上げた。
夫は頷き、上着を脱ぐ。
リビングのエアコンは、二十四度。
水野は、リモコンを見なかった。
夕食中、沈黙が続く。
いつもなら、今日あった出来事や、ニュースの話題を振る。
だが、それも「間」をコントロールしている気がして、やめた。
食器の触れ合う音だけが、空間を満たす。
――何か、言わなきゃ。
でも、言葉が浮かばない。
論理を外した途端、水野の中には、霧のような感情しか残っていなかった。
「……ねえ」
ようやく口を開く。
「私さ、最近……うまくできてない気がする」
夫は箸を止めた。
こちらを見る。
水野の胸が、少しだけ軽くなる。
聞いてくれている。
そう思った。
「どう、うまくできてないの?」
その問いに、水野は詰まった。
――どう、とは?
説明しないと、伝わらない。
でも、説明したら、また論理になる。
「……なんとなく」
それしか言えなかった。
夫は少し待ったが、水野が続けないのを見て、箸を戻した。
「そっか」
それだけだった。
拒絶ではない。
でも、届いてもいない。
水野の胸の奥に、小さな焦りが生まれる。
――感情で話すって、こういうこと?
わからないまま、食事が終わった。
夜、二人並んでソファに座る。
テレビはつけたが、音量は小さい。
水野は、思い切って言った。
「今日は、温度……気にしないから」
夫は視線をテレビに向けたまま。
「あ、そう。」
「うん」
理由も、意図も、説明しない。
それが正解だと思った。
夫は曖昧に笑った。
「無理してない?」
その一言に、水野の胸がざわつく。
無理?
これは、歩み寄りのはずだ。
論理を使わない、努力のはずだ。
「してないよ」
即答したが、自分の声が固いことに気づく。
沈黙。
夫は、リモコンを取って温度を二十三度に下げた。
たった一度。わずかな調整。
その動作を見て、水野の胸が締めつけられる。
――それは、私のため?
――それとも、気まずさを避けるため?
感情だけで受け取ろうとして、どこにも着地できない。
「……ごめん」
思わず、口からこぼれた。
夫がこちらを見る。
「何が?」
水野は、答えられなかった。
説明できない謝罪は、ただ空気を濁すだけだ。
夫は困ったように笑った。
「謝られると、俺が悪いみたいじゃん」
その言葉に、水野は何も返せなかった。
論理を使わなかった。
代わりに、感情を差し出したつもりだった。
でも、それは形になっていなかった。
相手が受け取れる「何か」ではなかった。
その夜、布団の中で、水野は目を閉じた。
論理を使わなければ、うまくいくわけじゃない。
感情を出せば、通じるわけでもない。
――じゃあ、私は、どうすればいい?
答えは、やっぱり出ない。
ただ一つ、はっきりしたことがあった。
論理を手放すことも、
感情に寄ることも、
どちらも「逃げ」になりうる。
水野は、まだわからない。
それでも、隣で眠る夫の気配を感じながら、
この「わからなさ」を抱えたまま、朝を迎えるしかなかった。
水野は、この夜も答えに辿り着けませんでした。
論理を使わなかった。
感情を抑えもしなかった。
それでも、言葉は形にならず、
関係は少しも軽くならなかった。
この話で描かれているのは、
「感情で話せばうまくいく」という幻想が崩れる瞬間です。
論理に寄りすぎても、
感情に寄りすぎても、
どちらも時に“逃げ”になる。
だから水野は、前にも後ろにも進めないまま、
「わからなさ」を抱えて朝を迎えます。
けれど、
考えることをやめなかった。
感じることを諦めなかった。
隣にいることを、手放さなかった。
それだけで、この夜は失敗ではなかったのかもしれません。
わからないまま立ち止まることも、
関係を続けようとする一つの形だと、
この物語は静かに示しています。




