正しさが、居場所を奪う夜
この物語は、大きな事件も劇的な言い争いも描いていません。
ある夫婦が、同じテーブルに座り、同じマグカップを前にして、
「ちゃんと話そう」と決めた一夜の記録です。
正しさを尽くせば、きっと分かり合える。
整理して伝えれば、相手も安心する。
そう信じてきた人ほど、ふと立ち止まる瞬間があるのかもしれません。
言葉は、足りなければ誤解を生み、
多すぎれば、相手の居場所を狭くする。
この物語は、
「論理が悪いわけでも、感情が正しいわけでもない」
その曖昧な境目に立たされた一人の女性の、静かな現在地を描いています。
答えは出ません。
けれど、問いだけは、確かにここにあります。
水野は、その夜を「話し合いの夜」にすると決めていた。
結論を急がない。
でも、本音は隠さない。
――今日は、ちゃんとやる。
夕食後、食卓の上にはまだ湯気の残るマグカップが二つ並んでいる。
テレビは消した。
沈黙が、以前よりも重たく感じられる。
「ねえ、一度ちゃんと話したい」
水野は、ゆっくりと言葉を選んだ。
夫は一瞬、警戒するように眉を動かしたが、頷いた。
「私ね、論理で話してるつもりはないの」
ここまでは、想定通りだった。
「円満でいたいだけ。感情でぶつかるより、整理して話した方が、長く一緒にいられると思ってる」
言いながら、水野は自分の声が少し低くなっているのを感じた。
――まずい。
そう思ったときには、もう戻れなかった。
「だから、温度の話も、電気毛布の話も、
“あなたを大事にしたい”っていう気持ちの表現なの」
夫は黙っている。
水野は、沈黙を「聞いている」と解釈した。
「感情だけで決めると、あとで苦しくならない? だから――」
「それだよ」
夫が、静かに遮った。
「今の話。 全部、“正しい”。 でもさ……」
少し言葉を探してから、続けた。
「俺、今、説得されてる気分なんだよ」
水野の胸が、きゅっと縮む。
「説得じゃない。共有だよ」
「違う」
夫は首を振った。
「共有って、“そう思ってくれてたんだ”って感じるものじゃない?」
その言葉に、水野は返せなかった。
初めて本音を出したのに。
初めて逃げずに話したのに。
失敗だった。
その言葉が、水野の中でゆっくり形を取った。
声に出さなくても、はっきりと輪郭を持っていた。
夫は、それ以上何も言わなかった。
責めるでもなく、慰めるでもなく、ただマグカップを両手で包み込んでいる。
湯気はもう立っていない。
水野は、喉の奥がひりつくのを感じた。
ここで何か言えば、きっとまた説明になる。
言わなければ、沈黙が「冷却期間」なのか「断絶」なのか、判断がつかない。
――今、私は、何をすればいい?
その問いに、答えは出なかった。
仕事なら、選択肢を書き出す。
メリットとデメリットを整理し、優先順位をつける。
だが、目の前の沈黙は、項目に分解できない。
夫が先に立ち上がった。
「今日は……もう、寝ようか」
逃げだと、思わなかった。
それが最適解なのかどうかも、わからなかった。
ただ、水野は頷いた。
寝室に入っても、言葉はなかった。
照明を落とす音、布団が擦れる音、互いの呼吸。
それらが、いつもより遠く感じられる。
目を閉じても、眠れない。
水野は、天井の暗がりを見つめた。
――私は、間違ったことを言ったのか。
――それとも、言う順番を間違えただけなのか。
論理は、道具だ。
目的は、円満。
だとすれば、道具が目的を傷つけることもあるのだろうか。
自分の「正しさ」が、相手の居場所を奪っていないか。
そう考えた瞬間、胸の奥に小さな痛みが走った。
でも。
論理を手放したら、自分は何を頼りにすればいいのだろう。
感情だけで話す自分を、水野は想像できない。
声のトーンを上げ、笑顔を作り、納得できないまま頷く——
それは、自分が自分でなくなることのように思えた。
――わからない。
夫の背中が、すぐ隣にある。
手を伸ばせば触れられる距離なのに、遠い。
その翌日、水野は仕事で評価された。
会議室での説明は冴えていて、上司は満足そうに頷いた。
「やっぱり、水野さんがいると安心するよ」
その言葉に、胸の奥が少しだけ沈んだ。
安心、という評価が、家庭では通じない。
帰宅すると、足用電気毛布は、また使われていなかった。
水野は、それを見ても何も言わなかった。
「なぜ」を、今日は胸にしまった。
代わりに、夫のコートをハンガーに掛け直す。
しわを伸ばすように、指でなぞる。
これも、意味のない行為かもしれない。
効率的でも、合理的でもない。
でも、今はそれしかできなかった。
夜、二人は並んでテレビを見た。
内容は頭に入らない。
それでも、同じ画面を見ているという事実だけが、かろうじて二人を繋いでいる。
水野は思う。
論理が救う場面もある。
感情が救う場面もある。
でも、その境界線を、自分はまだ知らない。
――まだ、わからない。
それは敗北ではなく、現在地なのかもしれなかった。
地図はない。
けれど、隣にいる。
水野は、その事実だけを胸に留めたまま、今日を終えた。
水野は、最後まで「わからない」ままでした。
何が正解だったのか。
あの夜、何を言えばよかったのか。
それは、作者にも用意されていません。
この物語で描きたかったのは、
分かり合えなかったことそのものではなく、
分かり合おうとして立ち止まった時間です。
論理は、人を守るための鎧にもなり、
同時に、相手との距離をつくる壁にもなる。
感情は、人を近づける熱にもなり、
時には、制御できない火にもなる。
どちらかを捨てることではなく、
どちらも抱えたまま迷うこと。
それ自体が、関係を続けようとする意思なのかもしれません。
「まだ、わからない」という言葉は、
敗北ではなく、対話をやめていない証です。
地図はなくても、隣にいる。
その事実を選び続けることの難しさと、静かな尊さを、
もし少しでも感じてもらえたなら幸いです。




