二十度という約束
この物語に、大きな事件は起きません。
誰かが裏切ることも、劇的に愛を語ることもありません。
あるのは、
エアコンの設定温度と、
「正しいはずなのに、うまくいかない」という違和感だけです。
夫婦で決めたルール。
合理的で、間違っていない選択。
それでも、なぜか心がすれ違ってしまう瞬間。
この物語は、
「正しさ」と「近さ」が、必ずしも同じ場所にないこと、
そして、答えが出ないまま続いていく関係の手触りを描いています。
もしあなたが、
「ちゃんとやっているはずなのに、なぜか孤独を感じたことがある」
そんな経験を持っているなら、
水野の戸惑いは、きっと他人事ではないはずです。
二十四度の部屋で、
言葉にならなかった気持ちが、
この物語の中に、静かに置かれています。
水野は、空調のリモコンを手にして、
ほんのわずか眉をひそめた。
表示は二十四度。
――二十度、のはずだった。
結婚してすぐ、二人で決めた「家庭のルール」。
暖房は二十度。根拠は明確だ。
論文もある。行政資料にも推奨値として載っている。
電気代は抑えられ、身体への負担も少ない。
合理的で、持続可能で、何より
――円満な生活のための最適解。
水野はそれを、夫婦で穏やかに暮らすための方法だと信じていた。
「二十度にしない?」
できるだけ柔らかく言ったつもりだった。
「理由はね――」
「いい。もう、そういうの」
夫はソファに深く腰を沈め、リモコンを握ったまま言った。
テレビはついているが、画面の中身は頭に入っていない様子だった。
「論理的な話ばっかりしないでほしい」
声は低く、静かだった。
怒っているようにも見えない。
だからこそ、水野の胸の中で、その言葉は重さを持った。
仕事では、こんなふうに言われたことは一度もない。
むしろ逆だ。
「水野さんの説明はわかりやすい」
「論点が整理されていて安心できる」
会議室では、彼女の論理は人を助ける。
――なのに。
家庭では、それが距離を生む。
水野は口を閉じた。
言い返す言葉は、いくらでもあった。
論理的に話すのは、責めるためじゃない。
感情に任せてぶつかるより、ずっと優しいやり方だ。
問題を放置せず、根本から解決する。
それが、長く一緒にいるための、いちばん誠実な方法だと信じている。
円満な夫婦になりたい。
そのために、自分は論理を使っているだけなのに。
――でも、その「正しさ」は、ここでは浮いている。
数日前のことを思い出す。
「テレワークの時、足が冷えるんだよね」
夫が何気なく漏らした一言。
水野は覚えていた。
覚えていたから、調べた。
レビューを読み、性能を比較し、最適解を選んだ。
足用の電気毛布。
サプライズで渡したとき、夫は笑った。
その笑顔を見て、水野は安心した。
――ちゃんと、伝わった。
その夜、使われていないのを見つけるまでは。
「合わないなら返品しよう」
「その方がいいでしょ?」
それは、気遣いだった。
気に入らないものを無理に使わせたくなかった。
問題があるなら、解決すればいい。
沈黙のあと、夫は言った。
「……なんか、さみしいね」
その言葉が、水野にはわからなかった。
今も、よくわからない。
――さみしい? どこが? どうして?
正解を探そうとするほど、答えが遠ざかっていく。
布団に入っても眠れず、天井を見つめる。
水野は、仕事のように考え始める。
目的。
円満な家庭。
お互いが心地よく過ごせる生活。
――では、手段は?
そこで、思考が止まった。
自分は、円満になるために論理を使っている。
ーーーーーーー
妻がリモコンを見て、何を言いたいのかはすぐにわかった。
二十度。
そう決めた。
理由も聞いた。何度も。
論文。行政。電気代。
全部、正しい。
「二十度にしない?」
彼女の声が、少し低くなる。
その瞬間、胸の奥がひゅっと縮む。
――また、始まる。
これから説明が来る。
自分が「納得すべき理由」が、きれいに並べられる。
「いい。もう、そういうの」
拒絶したかったのは、論理そのものじゃない。
あの声だった。
仕事のときと同じ、感情の温度が下がる声。
「論理的な話ばっかりしないでほしい」
本当は、こう言いたかった。
――正しくなくていいから、一緒に笑いたい。
――非合理でも、自分たちらしくいたい。
電気毛布のことも、そうだ。
嬉しかった。 覚えていてくれたことが。
でも、「返品」という言葉を聞いた瞬間、
それが「気持ち」じゃなく「案件」になった気がした。
だから、思わず言った。
「なんか、さみしいね」
説明できなかった。
自分でも、うまく言葉にできなかった。
ーーーーーーー
翌朝。
夫は、足用電気毛布を使っていた。
水野はそれを見て、何も言わなかった。
ただ、コーヒーを置いて言った。
「……寒くない?」
夫は少し考えてから答えた。
「大丈夫」
あたたかい、とも、寒いとも言わなかった。
その沈黙で、水野は理解する。
自分たちは、同じ場所を見ているのに、地図が違う。
水野は今日も、うまくできない。
円満になりたいのに、手段が噛み合わない。
それでも、リモコンを置いたまま、隣に座った。
温度は変えない。
言葉も、足さない。
正しさの外側に、まだ名前のつかない何かがある。
それを探す時間も、夫婦の一部なのかもしれなかった。
水野は、最後まで「わかりませんでした」。
どちらが正しいのか。
どうすれば円満なのか。
論理を続けるべきか、感情に寄るべきか。
その問いに、明確な答えは出ていません。
けれど、水野は一つだけ選びます。
わからないまま、隣に座ること。
正解を出すことよりも、
説明することよりも、
沈黙を「なかったこと」にしない選択です。
夫もまた、何も解決していません。
電気毛布を使いながら、
温かいとも、寒いとも言わないままです。
ただ、物語はここで終わりではありません。
次に変わるのは、
温度でも、言葉でもなく、
「気づいてしまったあとの日常」です。
一度意識してしまった違和感は、
もう、元の形には戻りません。
何も起きていないようで、
何かが、確実に始まっています。
朝の空気、
会話の間、
相手の背中を見る時間。
二十四度の部屋のまま、
少しずつ、ズレたまま、
夫婦は次の一日を迎えます。
それは、解決編ではありません。
むしろ、「続いてしまう話」です。
二十四度のまま、
今度は、気づいた二人の時間が始まります。




