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ケモノノ巣域 ──白岳の王討伐戦──  作者: 夢虚
第一章 白岳の王討伐戦
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第8話② 斥候任務(後編)

 森の空気が、目に見えない膜を持ったように重くなった。

 さっきまでただ冷たかっただけの空気が、

 今は、喉の奥で粘つく。


 ――ズ……ッ。

 ――ズズ……ッ。

 地面のどこかで、重い何かが踏みしめる音がした。


 「……来やがったか」


 北原が、乾いた声で呟く。


 「全員、撤収態勢。

 安全装置の解除を許可する。通信班、救難信号準備だ。

 焦るな。ゆったりでいい。落ち着いて」

 

 巳影の声は低いが、よく通った。


 「南」


 「……はい」


 「音の方向を確認しろ。耳じゃなく、全身で」


 南は、無線機のそばから半歩前へ出た。

 目を閉じ、足の裏、背中、耳の奥――

 全身に伝わる“揺れ”を必死に拾う。


 (……右前方。

 さっき通ってきた獣道の方……

 う、後ろからついてきてたの……!?)


 「右前方、たぶん獣道方向です……」


 「よし。

 撤収ルートは予定通り来た道を戻る。

 奴にはどうにか道を開けてもらうぞ」


 冷静に見える巳影の額には、大粒の汗が噴き出していた。 


 「全員骨の山には近づくな。視界の端でいい」


 巳影が決める。


 「通信班、撮影は最低限。

 あとは生きて帰ってから考える」


 「了解」

 

 斥候班が後退準備を始めた、そのとき――

 森の黒が、形を持った。

 

 木々の間。

 さっきまで何もなかった隙間に、“太すぎる何か”が一本、増えていた。

 最初は、幹のひとつだと思った。

 だが――

 それは、ほんの少し“揺れた”。

 

 銀灰色の毛並み。

 丸太のような両脚。

 盛り上がった肩。

 そして、肩から上――

 本来首があるはずの位置は、妙に短く潰れていた。

 頭部は枝と影に隠れてよく見えない。

 なのに、目の高さだけが不自然に高い。

 熊の知識として思い浮かべる高さではない。

 二足の人間が、さらにその上に乗ったような位置。

 

 「……見えたか」


 巳影の声は、驚くほど静かだった。

 北原は、額に汗を浮かべながら頷く。


 「ああ……立ってやがる」


 熊が立ち上がる――

 そういう現象は、知識としては知っている。

 だが今目の前にいるそれは、

 「熊が立つ」というより、「森から一本、生きた柱が生えた」ようだった。

 幹と幹の間。

 そこに、不釣り合いな太さと高さの塊がひとつ混ざっている。

 動かなければ、木と見分けがつかない。

 動こうとした瞬間だけ、獣になる。

 

 南の喉が、ひゅっと鳴る。


 「……っ」


 視界の端が滲み、

 足の力が抜けそうになる。


 「下がれ」


 巳影は、視線を森から外さないまま言う。


 「絶対に、撃つな。

 いま撃てば、その場で全員やられる」

 

 熊ノ王は、一歩、前に出た。

 それだけで、空気の圧力が変わる。

 肺の中の空気が絞られ、

 鼓動だけが、やけにうるさく耳に響いた。

 

 二歩目。

 斥候班との距離は、およそ三十メートル。

 南の指が、引き金の上で固まる。


 (撃てない……)

 (撃ったら、たぶん――)

 (こっちが死ぬ……)


 指先が冷たくなり、感覚が遠のいていく。


 「南」


 巳影の声が飛んだ。


 「吸え。息を吸って、止めろ。

 ゆっくり吐け。俺の声だけ聞け」


 「……っ」


 南は必死に従い、

 肩を震わせながらも、かろうじて呼吸のリズムを取り戻す。

 

 三歩目。

 熊ノ王は、斥候班との距離二十メートルの地点で止まった。

 あと数歩で、届く。

 その距離で――見ている。

 黒い穴のような目が、

 斥候班ひとりひとりを、順番に舐めるように見ていく。


 獲物としての価値と、遊び相手としてのしぶとさを、測るように。

 

 ――ヴォ……ォ……。

 低い呼気。

 それは、笑っているように聞こえた。

 

 「……下がれ」


 巳影は囁くように言った。


 「通信班、救難信号発射!

 本部には岩倉中佐率いる本隊が待機している!

 十分でいい! 時間を稼ぐぞ」


 「了解……!」


 北原が、怒鳴らない声で応じる。

 通信班の一人が、天に向かって救難信号を意味する、赤色の発煙弾を打ち上げた。


 全員が、熊ノ王から目を逸らさずに一歩ずつ後退を始める。

 骨の山を視界の端に残しながら、

 

 熊ノ王は、もう一歩だけ前に出た。

 そして――唐突に動きを止める。


 巨体が、わずかに斜めを向いた。

 鼻先を、別の方向へ向ける。

 北域司令基地のある方角だ。

 

 ――ヴォ……ォ……。

 さっきまでとは違う、短い呼気。

 それは、まるで

 「また後で行く」と告げているようだった。

 

 次の瞬間、熊ノ王は森の奥へ向かって走り出した。

 その動きは、あまりにも軽かった。

 銀灰色の巨体が、木々の間を縫うように消えていく。

 太さの合わない隙間を、

 無理やり通り抜けながら。

 木が折れ、枝が飛び、

 小さな雪の塊が、ぱらぱらと地面に落ちた。


 ――ズ……ッ。

 ――ズズ……ッ。

 足音は、すぐに遠ざかっていく。

 

 静寂が戻る。

 斥候班の誰も、すぐには動けなかった。

 汗の冷たさと、震える指先だけが、

 自分がまだ生きていることを教えてくれる。

 

 「……撤収だ」


 巳影の一言で、ようやく空気が動き出した。

 

 基地へ戻ったのは、それから三十分後だった。

 森の縁で、本体と合流し、ようやくの安寧を得た。

 

 「南」


 巳影が声をかける。


 「よくやった」


 「……わ、私は、何も……」


 「何もしなかったことが、最高の仕事だった」


 巳影は、そう言って南の肩を軽く叩いた。


 「撃たなかった。逃げ出さなかった。

 それだけで十分だ」


 南の目に、じわりと涙が滲む。

 

 「巳影少佐」


 岩倉中佐が広場に降りてきた。


 「どうだった」


 「森の内部構造、おおよその獣道、

 それと――骨の集積場を確認しました」


 「集積場?」


 「敵が、狩ったものを集めている場所です」


 岩倉の顔が歪む。


 「……後で詳しい報告を聞こう。

 それと――」


 「はい」


 「さっき、基地の北側で“巨大な影を見た”という報告が上がっている。

 時間は――斥候班が森の中に入った頃だ」


 巳影の背筋に、冷たいものが走る。


 「つまり――」


 「お前たちが森に入っている間に、

 奴は一度、基地の方を見に来ていた。

 そしてお前たちの後ろをついて行ったということだ」

 

 森で試されていると思っていた。

 だが同時に、基地そのものも“のぞき見”されていた。


 (このままじゃ、じりじり削られるだけだ)

 (森で遊ばれている限り、主導権はずっとあっちにある)

 (だったら――)

 

 巳影は、森の方を振り返った。

 黒い木々の列は、何も語らない。

 だが、その沈黙の向こうで、

 銀灰色の巨影が、静かに牙を鳴らしている光景が目に浮かんだ。


 (条件を選ぶ側に、こっちが回らなきゃならない)

 (奴の庭から、一度でも引きずり出す)

 

 「――次は、こっちの番だ」


 巳影は、小さくそう呟いた。

 

 北域の森は、黙っている。

 だがその沈黙は、

 戦いの順番を楽しんでいる狩人の沈黙にしか思えなかった。

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