第八話① 斥候任務(前編)
北域司令基地から見える森は、朝になっても夜の黒さを残していた。
太陽は雲に隠れ、斜面と木々の境界線は、ぼんやりとしか見えない。
けれど、巳影朝人には分かっていた。
あの黒の向こうは、完全な敵地だ。
「――斥候班編成、以上だな」
広場に集められたのは、各班から選抜された少人数。
巳影班からは、巳影、北原、南の三名。
田邊班から二名。通信担当一名、医療担当一名。
計八名の小隊。
岩倉中佐が最後の確認を行う。
「昨夜の軍議をもとに、我々は対象──”白岳の王”を明確な敵性生物と決定した。
今回の斥候部隊の目的は、森の縁の地形および獣道の確認だ。
我々はこの森について無知な部分が多い。周囲の侵入経路の洗い出しが必要だ。
森に“入る”こと自体が目的ではないことを忘れるな」
淡々と作戦の概要が説明される。
そして最後に、語尾が強くなる。
「いいか――必要以上には近づくな」
兵たちは、無言で敬礼した。
誰も軽口を叩かない。
一昨日の惨劇が、まだ全員の眼の奥に焼き付いている。
柵の門が開く。
外の空気が、基地内とは違う冷たさで頬を叩いた。
巳影は斜面を見上げ、短く命じる。
「斥候班、展開」
「了解」
先頭は巳影、そのすぐ後ろに北原。
三番目に南、その後ろに田邊班の二人。
最後尾を通信・医療担当が固める。
隊列の間隔は、近すぎず遠すぎず。
互いの背を追える距離。
斜面を下りる足音が、静かな空気に切り込んでいく。
――ザク、ザク。
――ザク、ザク。
森が近づくにつれて、世界の色が変わっていく。
土の匂いが濃くなり、
冷えた空気が肺の中で重く溜まる。
南は、マフラーの内側でそっと唇を噛んだ。
(怖い……)
(でも……)
前を行く巳影の背中が、いつもより大きく見える。
その後ろ姿は、
何度も死地を越えてきた者だけが持つ静かな重さを帯びていた。
森の縁にたどり着く。
木々の最前列は、まるで柵のように並んでいた。
幹と幹の間は狭く、外から見ただけでは奥の様子が分からない。
「ここから先は、完全に奴の庭だ」
北原が小声で言う。
「足音を最小限に。
無駄口は控えろ。どうしても喋るなら囁き声で」
巳影は簡潔に指示を出した。
「南。匂いと空気の変化に注意しろ。
何か感じたら、すぐ言え」
「……はい」
一歩、森の中へ足を入れる。
途端に、音が変わった。
基地側の空気には、まだ人の気配があった。
風、足音、遠くの作業音──地上の生活音。
だが森の中では、それらがすべて、厚い湿布で塞がれたように、急に遠のく。
踏んだ枝が折れる音だけが、妙にくっきりと響いた。
――パキッ。
――ミシ……。
南は肩をすくめる。
(森が……聞いてるみたいだ)
樹木の間隔は不規則で、
場所によっては兵士一人がやっと通れるほどだ。
巳影は先頭で、通りやすそうなルートを瞬時に選びながら進んでいく。
木の幹には、ところどころ、樹皮が剥がれた跡があった。
「これ……」
北原が指先で触れる。
「でけぇ何かがぶつかりながら通った跡っすね」
「獣道だな」
田邊が低く言う。
「何度も通った場所だけ、こうやって道になる」
南の背筋に、冷たいものが走る。
(何度も……)
(何度もこんな基地から近いここを通ってたってこと……?)
数百メートルほど進んだところで、巳影が手を上げた。
「停止」
全員が動きを止める。
森の中の空気が――わずかに“違う”気がした。
「……匂いが変わりました」
それを先に言ったのは、南だった。
巳影が横目で南を見る。
「どんな匂いだ」
「……血と、土と……あと、何かもっと……古い匂いです」
「腐臭か?」
「いえ、違います。
腐ってるっていうより……長いこと、ここにあるものの匂いで……」
巳影は短く頷いた。
「進む。
だがここから先は、一歩ごとに周囲を確認しろ」
数歩、進んだところで――
森の中の一角が、不自然に開けていた。
木々の密度が急に薄くなり、
円形の空間ができている。
木漏れ日もほとんど届かないその中心に、“それ”は積まれていた。
「……なんだ、あれ」
田邊班の兵が、思わず呟く。
近づくにつれて、それが“石”ではなく“骨”だと分かる。
大小さまざまな骨。
人間のものも、獣のものも混ざっている。
頭蓋骨。
肋骨。
長い脚の骨。
それらが、意味ありげに積み上げられ、一つの“山”になっていた。
南の喉が、ひゅっと鳴る。
「なっ……」
「おいおい……」
北原も思わず息を呑んだ。
「巳影少佐、これ……
どう見ても、偶然こうはならねぇっすよ」
「ああ」
巳影は、静かに骨の山を見つめた。
骨の山は、森の中の祠のように鎮座している。
周囲には、濃い血溜まりはない。
ここは、“殺した場所”ではない。
集めてきた場所だ。
「南」
「は、はいっ」
「何か感じるか」
南は目を閉じ、ゆっくりと呼吸をした。
鼻腔に、独特の匂いが入り込む。
土でも血でもない。
骨そのものとしか言えない匂い。
それに混じって、ほんのわずかに――
「……笑ってるような感じがします」
「笑っている?」
「えっと、その……馬鹿みたいな言い方ですけど……」
南は喉を詰まらせながらも続けた。
「“見せびらかしてる”みたいな、
“どうだ、ここまで集めたぞ”って……そんな感じが……」
言っていて、自分でもおかしいと思う。
だが、巳影は否定しなかった。
「正しいと思う」
「え?」
「これは縄張りの標識だろう。
同時に、俺たちがここに来るのをわかっていて、それ故に“ここまで届いている”と誇示するためのものだ」
田邊が、慎重に周囲を見回す。
「熊って、こんな真似……しますかね」
「普通の熊はしない」
巳影は答える。
「だが、“王”はするのかもしれん」
その言葉に、誰も反論できなかった。
骨の山の中に、見覚えのあるものが混ざっていた。
軍靴。
潰れた飯盒。
半分ちぎれた識別票。
北原が、それを拾い上げる。
「……松崎班のだ」
刻まれた番号は、
確かに先日まで同じ広場に立っていた兵のものだった。
そのとき、通信兵が小さく声を上げた。
「少佐……無線が入ってます」
「基地からか?」
「いえ……これは……」
通信兵の顔色が変わる。
「誰かが……この近くで送信ボタンを押してます……!
声は聞こえません。
でも、ノイズの裏に――」
――ザザ……。
無線機のスピーカーから、微かな音が漏れた。
――はぁ……はぁ……。
呼吸音だ。荒く、苦しそうな息。
その合間に、金属が擦れるような音が混じる。
――カチ……カチ……。
「これ……誰かが、銃の安全装置を――」
「黙れ。
総員、周囲を警戒。
北原、人数を確認しろ」
巳影が低く制した。
耳を澄ます。
――はぁ……。
――ヴォ……ォ……。
呼吸音の向こうに、聞き覚えのある低音が混ざった。
森の空気が、さらに重く沈む。
南の指先が、震え始めた。
(来る……)
(どこかから、こっちを――)
「巳影少佐、後方にいた医療班の一人が……」
北原の報告を受け巳影は、無線機から目を離さずに言った。
「……ここまでだな」
「撤収っすか……。
行方不明の医療班の奴はどうしますか?」
北原が問う。
「ああ、悔しいが、あきらめるぞ。
長居すれば全滅だ」
巳影は唇を嚙みながら支持を出す。
「骨の山の位置測定と撮影だけして、すぐ引き上げる。
基地には、無線を入れてくれ。
『殉職者一命。敵生成物の痕跡を確認。
これより、帰還する』、と」
「了解」
斥候班が、それぞれ無言で頷いた、そのとき。
森の奥から何かの気配を感じた。
――ズ……ッ。
足裏に、重さが伝わってきた。
土の下から、何か巨大なものが近づいてくるような感覚。
南は、息を止めた。
(ここは、まだ“入り口”だ……)
(本当の森は、この先に――)
巳影は、森のさらに暗い方を見据えたまま、短く命じる。
「撤収態勢に入れ。視線は絶対に森から外すな。
安全装置は解除しろ。
だが、発砲はするな」
誰もが感じていた。
――この森には、“王”がいる。
その確信だけが、骨の山より重く、全員の胸にのしかかった。
斥候任務は、まだ終わっていない。
“本当の惨劇”は、これからだった。




