第七話 軍議
翌朝の北域司令基地は、いつも以上に静かだった。
夜の冷えがそのまま床板に染みついたようで、
廊下を歩く兵の靴音も、どこか遠慮がちに響いている。
昨日の夕刻――
補給倉庫裏で異常な“引きずり痕”が見つかり、
日没直後、斜面の途中で松崎伍長の上半身だけが発見された。
肩から下は、なかった。
血痕は大型の肉食獣の存在を物語っており、残る二名の班員は行方不明。
それは、熊害という言葉で片づけるには、あまりに整然とした惨劇だった。
◆
午前七時。
司令棟一階の会議室には、各班の班長と副官、医療班と通信班が集められていた。
椅子を引く音、紙をめくる音、誰かの咳払い。
どれも小さいはずなのに、やけに耳に残る。
「全員揃ったな」
前方に立つ岩倉中佐が、疲れのにじむ声で言った。
「では、昨日の件について軍議を行う。
巳影少佐、口頭での第一報を頼む」
「はい」
巳影は立ち上がり、壁の地図へ歩み出た。
「昨日の夕刻、基地東側の補給倉庫裏にて、引きずり痕を確認。
痕跡は斜面方向へ伸びていました」
「その先で見つかったのが、松崎伍長だな」
岩倉が眉を寄せる。
「はい。日没直後、斜面中腹にて松崎伍長の上半身のみを確認。
下半身は、方から下が丸ごと消失していました」
会議室の空気が一瞬で重くなる。
『消失……?』
『食いちぎられたんじゃないのか?』
「静かに」
岩倉が一言だけ告げると、ざわめきはすぐに収まった。
「続けろ、巳影少佐」
「遺体の切断面は滑らかで、骨の破砕は最小限。
“噛みちぎり”ではなく、切断に近い状態でした」
医療班の軍医が、資料の一枚を見ながら顔をしかめた。
「歯型や咬傷は、ほとんど見られないと判断しました。
通常の熊害とは、明らかに様相が異なるというのが解析版の見解です」
「周囲の血痕も……不自然です」
巳影は言葉を選びながら続ける。
「致死量に見合う血の量が、現場にはほとんど残っていません。
流れた血の一部を、回収したような形跡があります。
これは想像にはなりますが、血を残すことによるデメリットを理解していると思われます」
『回収……?』
『獣がそんな合理的な真似をするか?』
再びざわつきが広がる。
巳影は、そのざわめきを正面から断ち切るように言った。
「結論から申し上げます。
自然の獣ではありません。
我々が相対しているのは、“捕食の意志を持った敵”です。
おそらく、人間を襲うことに慣れている……。
過去の派遣部隊の失踪も、先行部隊の消息が絶たれた原因にも関与していると考えて間違いないでしょう」
会議室の温度が、そこで一段階下がった気がした。
◆
「す、すみません……!」
会議室の端で控えていた南二等兵が、思わず声を上げた。
資料を抱く腕が震えている。
「南二等兵?」
岩倉が視線を向ける。
「き、昨日……倉庫の裏で……
重いものを引きずる音を聞いたのは、わたしです……」
南は巳影を一瞬見た。
巳影は、ゆっくりと頷く。
(無理に話さなくていい――)
そう目が告げていたが、南は唇を噛みしめて続けた。
「ただの熊……じゃないと、思います。
熊だったら、もっと……あちこち、めちゃくちゃに荒らすはずです。
でも、あの跡は……」
言葉を探しながら、南は指先をぎゅっと握った。
「選んでる感じでした。
持っていく場所、量、残す痕……全部に意図があるみたいで……」
「意図……」
誰かが思わず呟く。
「獲物を、ただ食べるんじゃなくて……
管理してるみたいな……そんな感じがしました」
会議室が、ぴたりと静まり返る。
恐怖だけではない。
南の言葉には、見た者にしか言えない重さがあった。
◆
「岩倉中佐、よろしいでしょうか」
北原伍長が腕を組んだまま、低く口を開いた。
班長たちの目が、一斉に北原へ向く。
巳影は短く頷き、皆に向き直った。
「我々は夕刻、松崎伍長の遺体を現認。
その後、斜面下の森の縁……木々の隙間に、立っている”奴”を視認しました」
「ただの熊が立ち上がったのではないのか?」
「熊も立ちますが――」
北原がそこで言葉を引き継いだ。
「大きさが違います。
あれは……木と同じ太さで、人間の倍以上の高さで……」
言いながら、自分でも思い出すのが嫌そうに肩をすくめる。
「立っているってより、“そこに壁がある”みてぇでした。
森の黒と溶けてて、動いた瞬間にしか見えねぇ」
「姿を完全に晒す気はなかったのでしょう」
巳影が続ける。
「ただ、こちらの動きを“見ていた”。
斜面を登る速度、隊列の乱れ、反応の仕方……
それを、あの場で一通り“試された”感覚があります」
数人の班長が無意識に喉を鳴らした。
◆
そのときだった。
――ザザ……ッ。
天井のスピーカーが、突然ノイズを吐いた。
「む……通信班か?」
岩倉が顔を上げた直後――
――ヴォ……ォ……。
あの、低く湿った“呼気”が混じった。
南が反射的に椅子の縁を掴む。
「……ッ!」
「あの音だ……!」
「また……聞こえやがった……!」
会議室の空気が、一瞬で凍りつく。
巳影だけが、わずかに息を整え、静かな声で言った。
「……森の中にいます。
距離は測れませんが、我々の存在を把握している」
「巳影少佐、それはどういう意味だ」
岩倉が問う。
「奴は音に敏感です。
地面を踏む音、建物の軋み、無線の震え……
森に侵入するたびに遭遇したんのもただの偶然ではないでしょう。
間違いなく、人間の音を把握して待ち伏せしている。
そして――ここでの会話も聞こうとしているのだと」
「まさか……動物が今の軍議を、聞いていると?」
「断定はできません。
ですが、“こちらが騒げば騒ぐほど場所が割れる”と考えて動くべきです」
誰も冗談を言わない。
笑いも、軽口も出ない。
ここにいる全員が、すでに戦場にいることを理解していた。
◆
岩倉中佐は、深く長い息を吐いた。
そして、覚悟を決めたように言葉を紡ぐ。
「……分かった。
全隊に通達する」
その声は、これまでより幾分か固かった。
「本日より、北域司令基地は厳戒態勢に入る。
森との接触距離は原則二十メートル以内禁止。
単独行動を禁じ、巡回は常に複数班で行う。
軽装での外出も禁止。武装は常時携行。
銃の安全装置は――副長以上の許可のもとで、判断。
必要であれば解除してよしとする」
班長たちが、一斉に息を呑む。
これは、ただの注意喚起ではない。
事実上の「開戦準備」だ。
「そして――」
岩倉は一度、目を閉じた。
ゆっくりと、はっきりした声で告げる。
「認めよう。これは“熊害”ではない。
我々に対する、敵性存在による襲撃だ。」
その言葉が落ちた瞬間、会議室の空気が変わった。
恐怖に押し潰されそうだった兵たちの目に、わずかながら戦うための意志が灯り始める。
◆
巳影は小さく息を吐き、呟いた。
「……ようやくだな」
隣で北原が苦笑する。
「ええ。
これでやっと、戦場として動けますね」
南は胸に手を当て、震える指をぎゅっと握りこんだ。
(逃げない……)
(逃げたら、きっと誰かが死ぬ……)
(だったら……怖くても、ここに立ってるほうがいい……)
軍議は一応の結論を見た。
だが、会議室の窓の外――
風はほとんど吹いていないのに、
黒い森の梢が、わずかに揺れたように見えた。
木々が揺れたのか。
それとも、木々のあいだに潜む“何か”が、体重を預けなおしたのか。
誰にも分からない。
ただひとつだけ、全員が直感していた。
――北域の森は、黙っているだけで。
決して聞いていないわけではない、ということを。




