第六話 近代兵器と格差
午後。
北域の空はすでに夕闇の予兆を帯びていた。
雲はどこまでも低く沈み、森の上空に垂れ込めて、まるで蓋をされているかのように重く、息苦しい。
前日の調査で見た日下部のものと思われる血痕と、森の奥へと続く異様な痕跡。
その真相が判明するどころか、兵士たちの中にはむしろ、"何も分からないまま”沈黙だけが積み重なっていった。
そんな中巳影は、司令棟地図室で岩倉中佐と向かい合っていた。
「……北側斜面の痕跡は、報告書に記した通りです」
「それは読んだ。貴官の判断力は信用している。
それを踏まえて、俺はあの報告書に一切の疑いはない。だが……」
岩倉は未踏の森の地図に指を置き、かすかに眉を寄せた。
「本部は、まだ“獣害”という言葉を使っている。
そのうえでさらなる現地確認の要請が来た」
「あれは、到底”熊”による被害という一言で説明できる状況ではありません」
「分かっている。だが、そう簡単に『はい、そうですか』とは言えん。
……国は簡単には間違いを認めない。それはお前もよくわかっているだろう?」
岩倉の声は低く、疲れていた。
そのとき。
地図室の扉が乱暴に開いた。
「少佐!!」
北原伍長が駆け込んできた。息が荒い。
「南が……!」
巳影の背筋が瞬時に固まった。
「南がどうした」
「倉庫の裏で、“変な音がする”って……震えてて……!」
「音……?」
◆
東側補給倉庫。
南二等兵は倉庫の影で肩を抱えて震えていた。
「南」
「す……すみません……!」
「何が聞こえた」
「倉庫の裏です……森のほうから……なにか重いものを引きずる音ようなが……」
南は震える手で森がある方角を指さした。
「……ず……っ……ずず……って……」
巳影と北原は同時に息を止めた。
脳裏には、想定できる限りの最悪が思い浮かぶ。
一呼吸ついて、巳影は答える。
「裏に回るぞ」
「了解!」
倉庫裏に回った瞬間、巳影は呼吸を忘れた。
雪の上。
黒く、濃く、湿った“血の線”が描かれていた。
それは昨日、森の中で見た痕跡と同じ色だった。
だが少し違う。
これは――乾ききっていない。
指に張り付いたさらさらとした感触と、巳影の経験がそう判断する。
(……つい数時間前だ)
「足跡があります……!」
北原が低く叫んだ。
地面には巨大な踏み込み跡。
最初は四つ。
途中から――二つに変わっている。
(四足歩行からの二足歩行……)
巳影の背を冷たいものが走る。
◆
「続いてるっす! 斜面の方へ……!」
北原が血痕を追いかける。
南が震える声を上げる。
「な……何が引きずられたんでしょう……?」
「考えたくもない、”何か”だろうな」
巳影の目が、雪の中に落ちている“布”を捉えた。
北原がそれを拾い上げる。
「これ……防寒ジャケットの袖……肩章が……引きちぎられて……」
肩章部分だけが剥がれ、袖口は血で濡れている。
「所属は……松崎班だ」
北原の声が震えた。
斜面の下で、何かが光った。
「……?」
北原が先に気づいた。
「巳影少佐……あれ……」
巳影も目を凝らす。
雪の上に落ちている、金属片。
近づいて拾い上げた瞬間、それが何か理解した。
赤い一本の線が刻まれた階級章。
帝国軍小隊所属を表す階級章だ。
血に濡れているが、判別はつく。
「これ……松崎伍長のです……!」
北原の顔が蒼白になった。
「まさか……松崎班長が……?」
南が震える声で呟く。
◆
更に進んだ斜面の中腹。
遠目で雪の上に“何か”が落ちているのを発見した。
冬季兵装の軍人だ。
だが、その姿を見た瞬間、南は喉を押さえて崩れそうになった。
「ちが……っ……!」
巳影も北原も目を見開いた。
倒れていたのは、松崎班の現場指揮官――松崎伍長の身体だった。
だがその身体は、胴体の上半分しか残っていなかった。
胸の高さについた切断面は、かなり滑らかだった。
裂けた跡がない。
喰われた跡でもない。
切り取られたように、整って見えた。
「……運ばれた、んだな」
巳影は低く言った。
北原が口を押さえながら呟く。
「……獣じゃねぇ。
こんな綺麗な切断、獣にできるわけねぇ……!」
その時、風が一瞬止んだ。
森の奥から、湿った冷気が流れ出す。
その匂いには――
土、血、苔、獣の息、そして“意図”が混ざっていた。
「巳影少佐……来ます……!」
南が震える声で言う。
「全員、安全装置を外せ!」
巳影の声に、全員が身を固くし小銃を構える。
◆
そのときだった。
森の中で影が揺れ、一本の大木が横方向へ飛んだ。
――ガアンッ!!!
爆音。
折れた大木が舞い、雪煙が爆ぜ、地面が揺れる。
「ひっ……!」
「焦るな! 足元に注意しながら下がれ!!」
巳影が叫ぶが、背中に粘るような汗が流れるのを感じる。
汗は冷気で冷やされ、鳥肌が立つ。
――ズ……。
――ズズ……ッ。
何かが歩いている。
巨大な“何か”が。
南が巳影の袖を強く掴んだ。
「た、立ってます……! 木の間に……!」
巳影はゆっくり視線を音がする方に向けた。
◆
舞い上がった粉雪。
その白い視界の中で太すぎる影が一本、不自然に揺れた。
顔の輪郭がうっすらと浮かびあがる。
視線が固定される──人間の倍以上の高さに。
「……見えたか」
「……はい……!」
北原が汗を浮かべながら答える。
「立ってやがる……!」
その巨影は、森から一歩も出てこない。
出ない。
だが――見ている。
巳影たち一人ひとりの位置を、確かめるように。
そして、息を吐いた。
――ヴォォ……。
◆
「ッ――発砲準備!!!」
巳影は迷わなかった。
「全員、射撃姿勢を維持したまま基地へ後退!!」
北原の怒号が飛ぶ。
「隣の人間との距離に注意しろ! 照準をぶらすな」
三人は、訓練より少し速い歩幅で後退する。
ここで撃っても殺される。
走り出したい。
でも、背を向けた瞬間に殺される――
7.62㎜弾が装填された半自動小銃で武装していてもなお、誰もがそう確信していた。
南は涙目になりながらも、巳影の背後を守るように動く。
「し、少佐……」
「息を乱すな。吸って、止めろ。ゆっくり吐け」
南は必死に従い、視界の揺れを抑えた。
敵は銃を視界に捉えたまま、その場を動かない。
時々深く息を吸い込み、何かを確認するような仕草をとるが、それでも近づいてくることはなく、ただそこに立ち止まっている。
(銃を見るのは初めてか……? やけに警戒してるな)
巳影は、驚くほど冷静に分析していた。
走馬灯に似た、現状を生き抜く術を脳が模索しているような感覚が支配する。
(弱者の武器がどれほどやれるか……どれほどの価値があるか……)
巳影は唇を噛んだ。
◆
森を抜けた巳影たちに、見張り台の兵が気づいた。
臨戦態勢の姿に、緊急事態であることを察知した門兵が速やかに柵を開ける。
三人は転がり込むように基地内へ入り、直後、柵が閉じられる。
森は静かだ。
もう何もいないかのように。
だが――巳影は知っている。
(まだいる)
(ずっと……見ている)
北原が荒い息で呟いた。
「……これが……
これが“王”かよ……」
対峙するだけで、生物としての格の違いを突き付けられた。
巳影の胸で、十年前の市街地戦の残光が弾けた。
(……このままじゃ全員殺される)
(だが、逆に言えば……まだ“遊ばれてる”だけだ……)
その夜、基地全体に緊急警戒態勢が敷かれた。
報告書には、こう記される。
《初の接触。
敵の行動パターン不明。
行方不明者・松崎伍長の遺体上部のみ確認。
損壊は最小限。
対象はただの《羆》ではない。》
そして――
北域の森の奥。
銀灰色の巨影が、ゆっくり息を吐く音が木霊す。
――ヴォ……。
それはまるで、”次は、逃がさない”と告げるようであった。




