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ケモノノ巣域 ──白岳の王討伐戦──  作者: 夢虚
第一章 白岳の王討伐戦
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第五話 血の痕跡と潰れたボタン

 翌朝。

 北域司令基地の空は、曇天の灰色を通り越して鉛そのもののようだった。

 夜明けの光は弱く、冷たい。

 吐く息は白いが、空気には霜の匂いよりも鉄の匂いの方が濃かった。

 

 兵たちの顔から、昨夜の出来事は消えていない。

 誰も言葉にしないが、基地の空気そのものが“失踪者が出た後の沈黙”に包まれていた。

 

「――以上が昨夜の状況だ」

 

 朝の簡易ミーティングで、岩倉中佐が締めくくる。

 司令棟一階の寒々しい会議室。

 各班の班長と副官が集まり、沈黙を引きずるように椅子に腰かけていた。


 「柵外に出た日下部二等兵は未だ未帰還。

 銃声の確認なし。

 通信機への応答もなし」

 

 その報告すべき事実の少なさが、逆に恐ろしい。

 事件が起きた痕跡だけが残っているのだから。


 「巳影少佐」


 「はい」


 「貴官の班に、北西斜面の状況確認を命ずる。

 無闇に深入りはするな。あくまで確認だ」


 「承知しました」

 

 巳影は凛とした声音で答え、敬礼した。

 その横で北原の手が、わずかに握り締められる。

 

 会議室を出ると、南が待ち構えていた。


 「し、少佐……! あの、どうでしたか……」


 「北西斜面の確認だ。昨夜、日下部が向かったと思われる方角だ」

 

 南は息を呑む。


 「……やっぱり、行くしかないんですね」


 「ああ。このまま本土へ帰還……そんな判断は現場ではできない。

 それが国ってものだ」

 

 巳影の声は淡々としていたが、その奥には重い決意が潜んでいた。

 

 北原が壁にもたれ、腕を組んで会話を聞いていた。


 「もちろん巳影班総員で行くんすよね、少佐」

 

 「ああ。後方からの確認を頼むぞ」


 「当然っす」

 

 北原は自嘲気味に笑う。


 「……俺、あいつに“すぐ戻れ”って言えたんすよね」


 「通信機があったんだ。皆、同罪だ」


 「分かってます。でもよ……

 “もう死んでるかどうか確かめるために行く”ってのは性に合わねぇんですよ」


 「確かめるだけだ。

 “まだいる”か、“もういない”か。

 そのうえでどうするのか。

 それを考え、判断するのは俺たちじゃない」


 北原は小さく息を吐いた。


 「……了解っす」

 

 柵の外。

 日下部が出ていった地点には、薄く残った雪に足跡がはっきり残っていた。


 「ここです、少佐」


 案内役の兵が指さす。

 柵の板が一枚、緩んでおり、人一人が通れる隙間がある。


 「昨夜まで……気づきませんでした」


 「もともと荷の出し入れに使っていた可能性もある」

 

 北原が補足する。


 「問題は隙間じゃない。夜に使ったことだ」

 

 巳影は膝をつき、足跡を観察する。

 最初の数歩は慎重に歩いたのか、足幅は狭い。

 だが斜面へ踏み出した途端、足跡の深さが変わっていた。


 (……何かに足をとられたか、それとも何かを見て、焦って走ったか)

 

 どちらにせよ、夜の斜面を戻ってきた足跡は存在しない。

 

 歩を進めるごとに、空気の質が変わった。

 湿り気、土、苔、腐葉土――

 そして混ざる“血の匂い”。

 南が、喉を押さえる。


 「……っ、す、すみません……なんか、胸が変で……」


 「変だと思ったら言え。お前の感覚は当たる」


 巳影の言葉に、南は目を瞬く。


 「はい……!」

 

 南の感覚は異常ではない。この土地に反応している。


 (――この子は“拾う”タイプだ)

 

 巳影は心中で判断する。

 

 基地から数百メートル進んだ森の中に、不自然な“空白”が出現した。

 周囲の木々が倒れ、同じ方向へなぎ払われている。

 細い幹は折れ、太い幹はえぐれ。

 ただの野生動物の通行では説明がつかない。

 空間の先の森は暗く、深く閉ざしている。


 「ここ……ですね、少佐」


 「ああ」

 

 巳影は静かに、中心へ歩み寄る。

 そこは――赤黒い円が広がっていた。


 雪は血で染まり、凍りかけの氷膜が鈍く光っている。

 血の量は多い。

 だが――肉片はほとんど落ちていない。

 

 南が、声を震わせる。


 「……日下部さん……」


 足元には、


 ・破れた防寒コートの切れ端

 ・片方だけの軍靴

 ・携行スコップの折れた柄

 ・帝国軍式の軍刀

 ・未使用の救援灯

 ・通話ボタンだけが潰れた携帯無線機

 

 そして、周囲に荒らされた跡はない。

 その全てが抵抗も、悲鳴も、逃走も許されない“瞬殺”だったことを物語っている。


 「逃げながら押したんだろうな」

 

 北原が無線機を拾い上げる。


 「助けを呼びたくて……声を出せなくて」

 

 巳影は血の円の外へ視線を移す。


 (……引きずられている)

  

 血溜まりから細い筋が伸び、斜面方向へ――


 (……そこで途切れている)

 

 引き擦り痕が、完全に途絶える。

 南が震える声で言う。


 「……どうして、ここで止まるんですか……? これ……おかしいです……」

 

 「持ち上げられたんだろう」

 

 巳影は低く答える。


 「手や足が地面に付かないほど、高く」

 

 弛緩した人体をそんな風に運ぶことは、人間の腕力では不可能。

 熊でも、ここまで正確かつ無駄のない持ち去り方はしない。

 

 「少佐……見てください……!」

 

 南が木の幹を指さす。

 幹には、斜めに走る四本の深い溝。

 ――爪痕。

 しかも、それは巳影の目線より高い。


 「……高すぎる」

 

 南が呟く。


 「二メートルじゃ効かねぇな……三メートル……いや、それ以上だ」

 

 北原は手袋越しに爪痕へ触れる。


 「これ、人間の皮膚なんざ紙みてぇに裂けちまう深さっすよ……」

 

 巳影は森の暗闇を睨んだ。

 

 一か所だけ、木々の隙間が不自然に開いている。

 巨大な何かが無理やり通った跡だ。

 枝が折れ、樹皮が剥がれ、同じ方向へ“押しやられている”。

 

 押し広げられた木々には、転々と血の跡が擦りついていた。


 (道が……ある)


 奴の通った道が。

 

 その瞬間――風向きが変わった。

 森の奥から、冷気が吐き出される。

 より一層、濃い臭いが周囲に充満する。

 土。血。腐葉土。

 そして――生暖かい“息”。


 (来る)

 

 巳影の背筋が硬直する。


 「全員、血痕の外へ出ろ。

 森に背を向けるな。ゆっくり下がれ」

 

 北原が、右手を横に広げながら小声で叫ぶ。


 「お前ら聞こえたか!! 目ぇ離すな!! 下がれ!!」

 

 森の奥で、“黒”が揺れた。

 木の幹にしか見えなかった太い影が――

 ほんの一瞬、左右に揺れた。

 ずっしりと重さの乗った、二本の足で。

 

 南が息を飲む。


 「……少佐……立って……!」


 「ああ」

 

 巳影の声は驚くほど静かだった。


 熊が立ち上がるのは知識として理解している。

 だが今、目の前の闇に佇む影は――

 熊より高く、熊より太く、“殺すために作られた何か”のように見えた。

 

 音が消える。

 風が止む。

 世界が息を止めた。

 そして――


 ――ヴォ……ォ……。


 湿りきった呼気が、地面を震わせる。

 前進している。木々の揺れが近づいてくる。

 

 「――全員、基地方向へ後退!!

 走るな! 走りたいやつほど歩け! 

 例え後ろから刺されようと、死んでも背中を見せるな!!」


 巳影の声は鋼のようだった。

 その指示に兵たちは、歩調を早め斜面を後退し始める。

 

 南はその場にへたり込みそうになり、咄嗟に巳影の袖を掴みかけ――

 ぐっと堪えた。

 巳影はその姿を横目で確認する。


 「よく耐えた」

 

 その一言で、南の膝が震えながらも踏みとどまる。

 

 “それ”は追ってこなかった。

 ただ、立って。

 見て。

 彼らが視界から消えるまで見送っていた。

 まるで、“次は、もっと近くで遊ぶ”とでも言うように。

 じわりじわりと距離を詰めながらだった。

 

 柵を越えた瞬間、緊張が一気に弛緩し、誰かが大きく息を吐く。

 二度目の撤退。


 「っはぁ……!」


 南は膝に手をつき、深く呼吸する。

 北原も帽子を脱ぎ、乱暴に髪をかいた。


 「……まだこちらを警戒してるんですかね」


 「いや」

 

 巳影は森を振り返る。

 黒い木々の列が、静かに沈黙していた。


 「試されたんだ」


 「試された?」


 「どれほど近づけるのか、どんな行動をとるのか。

 そのうえで――“まだ殺すのは勿体ない”と判断された」


 北原は乾いた笑いを漏らす。



 「……化け物っすね、それ」


 「ああ。

 でも、最悪なのは――『次は違う』ということだ」


 巳影と北原の視線は、柵のそばで座り込み俯く兵たちに向いていた。


 「もう十分に観察したと思ってるはずだ……。

 次はおそらく、人の領域(ここ)まで来るぞ」

 

 その日の報告書には、巳影少佐の追記が残った。


 《――熊とは呼べぬ“何か”について。

 捕食痕は人為的で、効率的。

 撤退行動を観察し、思考するような仕草あり。》

 

 ――ヴォ……。

 森の奥で、銀灰色の影が揺れた。

 狩りは、まだ始まっていなかった。

 これは――ただの“挨拶”だったのだ。

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