第四話 夜警
北域司令基地の一日は、異様なほど静かに暮れた。
昼間の調査から戻った各班は報告書を簡易にまとめ、武器の手入れをし、最低限の食事を済ませると、それぞれの寝台に体を沈めていった。
疲労があった。
だが、それ以上に――夜を迎えるのが恐ろしかった。
この土地の夜は、噂で聞いていた以上に“人間の領域”ではなかった。
森が黙る。風が止む。
何もいないはずの闇の奥で、“何かの息”だけが蠢いている。
どの兵士も共通して、どこかで小さくカサッと音がする度に体が警戒態勢をとる。
電気を完全に消す気にはなれず、宿舎の中でさえ一息つくことができないでいた。
◆
「巳影班、夜警に任ずる。配置につけ」
岩倉中佐の短い号令が、基地の広場に冷たく響いた。
集められた夜番の兵たちの吐息は白く、寒気のせいだけではなく、不安の色が混ざっていた。
「……またウチの班っすか、少佐」
北原伍長が外套の襟を立てながら苦笑する。
「“初日だ”」
巳影少佐は淡々と答える。
「いや、そういう意味じゃなく……
こういうの、最初に当たる班って、だいたい面倒な目に――」
「北原」
「はいよ、黙ります」
ただの冗談のはずなのに、その軽口は妙に現実味を帯びていた。
「……少佐」
南二等兵が、控えめに近づいてくる。
「夜警って、その……どこまで、何を見ればいいんですか?」
「見えるもの、見えないもの、全部だ」
「ぜ、全部……」
「ただし――撃っていいのは、“見えたものだけ”だ」
南の喉がつまる。
「見えないものを撃つな。
見えない怯えにトリガーを引くと、死ぬのは仲間だ」
「……はい」
南の表情は引き締まるが、その指先はわずかに震えていた。
巳影は気づいている。
南が恐怖に弱いわけではない。
(……気配に敏感な兵ほど、最初に異常を察知する)
だからこそ、守る必要がある。
◆
夜警の配置につく。
柵沿いに一定間隔で歩哨、司令棟の屋上に監視兵二名。そして巳影の班は北・西側の巡回に割り当てられた。
「少佐は北側を。俺と南で西を回ります」
「南を一人にするな」
「分かってます」
「じ、自分、一人でも……!」
「バカ言うな」
北原が南の額を軽く指で弾く。
「怖いもんは怖いって言え。無理して強がって死なれたら、困るのはこっちだ」
南は唇を噛みしめ、震える声で言った。
「……こわい、です」
「よし、それでいい」
北原は微笑むが、視線はすでに闇へ向けられていた。
◆
夜の気温は昼よりさらに低下していた。
だが、寒さより“空気の重さ”が勝っている。
人の気配も、風の音も、木材の軋む音すらもない。
巳影は柵沿いを歩きながら、暗闇の輪郭を探った。
足元の凍りかけた雪が、かすかに音を立てる。
――パキ……。
――パキン……。
(……違う)
音が、遠くに吸い込まれていく感覚。
夜の静寂は、単なる“静けさ”ではなかった。
“何かが音を奪っている”。
胸が少しだけ締め付けられた。
視界の端に、白い閃光がよぎる。
銃声。
濃霧のような血。
倒れた兵士の身体。
(……やめろ)
巳影は呼吸を整えようとする。
だが、右手が無意識に震えた。
その瞬間――風もないのに、森の木々がわずかに揺れた。
(……見ているのか)
暗闇の奥で、何か巨大なものが息を潜め、
柵越しの侵入者を監視している。
そんな“視線”のような気配が、巳影の皮膚に触れる。
◆
「少佐」
背後から声がし、巳影は我に返る。
北原だった。
すぐ後ろには南が控えている。
「交代の時間です。……さっき、止まってましたよ」
「風の音が気になっただけだ」
「はいはい。そういうことにしときますよ。
南、次はお前も西側を回るぞ」
「りょ、了解です……!」
3人は短く頷きあい、それぞれの持ち場へ散った。
◆
巳影は司令棟の屋上へ向かった。
木造の階段はきしむことなく、やけに静かだ。
建材が古いのに“生き物の体内のよう”に音を吸い込んでいる。
(……嫌な沈黙だ)
屋上に出ると、冷気が胸に刺さる。
「巳影少佐、夜警ご苦労様です」
監視兵が双眼鏡を構え、森と斜面を警戒している。
「異常は?」
「……特に。ですが――」
兵の声にわずかなしわが寄る。
「“見える範囲では”何もいません」
(つまり、見えない場所には何かいる、か……)
巳影は斜面を睨む。
真っ黒な夜が広がってる。
光を食う森。
まるで深海の底のように、どこまでが地面でどこからが木なのか判別できない。
その先に、何か得体のしれない化け物が住んでいて、今にもそれが襲ってくる──そんな居心地の悪さが漂っている。
そのときだった。
――サァ……
耳鳴りのような静寂の“圧”が変わった。
監視兵が双眼鏡を外す。
「少佐……? 今、音が……」
「しっ!」
目を閉じ、耳を澄ます。
風ではない。
枝が揺れた音でもない。
何かの動きに合わせて、周囲の音が消える。
そして――
ズ……ッ。
地面が、重さに押し沈む音。
◆
「――少佐!!」
下から怒号が響き、反射的に巳影は階段を駆け下りた。
すでに広場の前に兵たちが集まっている。
「何事だ」
「日下部二等兵が……!」
報告兵が叫ぶ。
「巡回交代の際、“少し様子を見てくる”と言って、柵の外へ……
そのまま、まだ戻っていません!!」
「外……だと……!」
空気が凍りついた。
(夜の北域で、柵の外……)
それは、海の真ん中に飛び込むのと同じだ。
「す、すみません!
ほんの少しだけって……!
すぐ戻るからって……!!」
「北原!」
「ここ!」
北原が駆け寄る。
「斜面の手前まで探す!
追跡じゃねぇ、確認だけだ!」
「了解!」
「南! 絶対に北原から離れるな!」
「は、はいっ!!」
斜面が、再び胃の底を掴むような沈黙に染まった。
巳影はその闇を睨みつける。
(――狩りが始まった)
まだ何も始まっていないように見えるのに、もうすでに“誰かが殺された後”のような気配だけが漂っていた。
「……夜が本格的に来たな」
巳影の呟きは、誰の耳にも届かないほど小さかった。
ただただ吐いた白い息が立ち上ってゆく。
その後一時間程度手分けをして周囲を捜索したが、日下部の姿は見当たらなかった。




