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ケモノノ巣域 ──白岳の王討伐戦──  作者: 夢虚
第一章 白岳の王討伐戦
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第三話 沈黙した指令基地と北側集落

 北域(ほくいき)の浜辺は、思っていたよりも狭かった。

 だが巳影朝人の足裏に伝わる地面の感触は、その狭さとは裏腹に、底知れぬ深さを孕んでいた。

 砂利でも砂でもない。

 雪解け水を吸いすぎた黒い泥が、軍靴の底にじわりと食いついてくる。


 「……上陸完了。各班、点呼を取れ」

 

 仮設の桟橋から次々に降りてくる兵たちの靴音が、湿った大地に吸い込まれていく。

 

 輸送船《あけぼの丸》は白い排煙を吐きながら、ゆっくり沖へと離れていった。

 帰り道を名残惜しむように、何人かの兵が振り返る。

 だが、巳影少佐は見なかった。


 ――戦場では、“帰り道を想像した者”から死ぬ。


 「巳影班、全員揃ってます」

 

 北原伍長が、小銃を肩から下ろして報告する。

 その横で南二等兵が、緊張でぎこちない敬礼をした。


 「巳影少佐、総員、上陸完了しました!」


 「了解。物資と兵装の確認後、司令基地へ向かう」

 

 丘の上に見える木造施設群――北域(ほくいき)司令基地。

 かつて“復興の象徴”として建てられたはずのこの拠点には、煙一つ上がっていない。

 まるで町そのものが“息をしていない”みたいに感じた。

 

 行軍が始まった。

 列をなす兵たちの足取りは重く、どこか上陸直後の高揚感とはかけ離れている。

 潮の匂いは薄れ、代わりに湿った土の匂いだけが濃くなっていく。

 奇妙なことに、鳥がいない。

 風も、木々を鳴らさない。

 ただ、兵士たちの軍靴が雪混じりの黒土を踏む音だけが、妙に生々しく響く。

 

 ――ザク、ザク。

 ――ザク、ザク。


 (……静かすぎる)

 巳影は思う。

 ただの山奥では出ない沈黙。

 これは、何か“理由があって”作られた沈黙だと。

 

 司令基地の外観は、遠目にはまだ“生きて”いた。

 屋根は落ちておらず、外壁も壊れていない。

 だが、近づけばわかる。

 窓ガラスのひび。

 扉の内側から押し破られたような歪み。

 壁に残る、乾いた泥の手形らしき痕跡。


 「……気配がねぇ」

 

 北原が低く呟く。


 「先行班は戻っていないのか?」

 

 巳影が通信兵に尋ねる。


 「はっ。二時間前に“基地が見えた”との無線があったのが最後で……。

 その後は混線が続いております」


 「混線?」


 「昨夜、船でも少しあった……あのノイズです」

 

 通信兵は言葉を選ぶように声を落とす。


 「故障……と、思いたいのですが」

 

 司令棟前で各班が集まると、統括の岩倉中佐が現れた。


 「状況は、予定より悪い」

 

 その声は重かった。


 「先行の開拓班・警備班、合わせて三個分隊との連絡が途絶。

 設備の稼働もほぼ停止状態。

 本任務は、すでに“周辺調査”ではなく“生存確認任務”へ移行している」


 ざわり、と空気が揺れた。


 「巳影少佐」


 「はい」


 「貴官の班には、北側集落の確認を命ずる。慎重に当たれ」


 「承知しました」

 

 巳影は敬礼し、部下たちを率いて北側へと向かった。

 

 集落は、基地から少し外れた斜面に並んでいた。

 木造の平屋が十数棟。畑だった黒い土が広がっている。


 ……だが、作物は一本も残っていない。

 抜かれた跡だけが残る。

 荒らされた痕跡ではない。

 もっと“計画的に、まとめて回収された”ような跡。


 「少佐、こっちの家……」

 

 北原が一軒の家の前で手招きする。

 玄関の扉の金具が、内側から強い力で曲がっていた。


 「……中、確認する」

 

 巳影は先頭に立ち、家屋へ侵入した。

 

 室内は、人が暮らしていた痕跡を色濃く残していた。

 整然と並ぶ茶碗。

 囲炉裏の灰。

 掛けっぱなしの衣服。

 だが――


 (人が、いない)

 

 寒さだけではない“空虚”が満ちている。

 床板のあちこちが黒く変色していた。


 「……血、ですね」

 

 南の声が震える。


 「時間は経っているが、量は多い」


 巳影は床を指でなぞり、その溝に溜まった黒色を確認した。

 その痕跡は、家の奥から玄関へ向かって引きずられていた。


 (抵抗した形跡が、ない)

 

 荒らされた家具もなければ、逃げ場へ向かった足跡もない。

 ただ“運び出された”跡だけがある。


 「獣の仕業にしちゃ……整いすぎてますね」

 

 北原の言葉は正しい。


 (これは……狩りだ)

 

 巳影の胃の奥がじわりと重くなる。

 

 外に出た瞬間、風の匂いが変わった。

 血の残り香が濃い。


 「他の家もほぼ同じパターンっす!」


 家々を回っていた兵が駆け寄る。


 「血痕はあるけど、遺体が……ひとつも……」


 「家畜も、全滅してるみたいです!」

 

 別の兵が報告する。


 「牧柵の木が、内側にじゃなく、外側に向かって折れてました!」


 「……押し潰されたのか?」

 

 巳影は、斜面下の森へ視線を向けた。

 黒く沈んだ木々が並び、光を拒んでいる。

 その奥から、冷気が流れてくる。

 

 突如、無線機が悲鳴を上げた。


 「ッザ……ザザッ……!」


 「ひっ……!」

 

 南が肩を跳ねさせ、耳を押さえる。

 混線に混じり、低い“呼気”のような音が聞こえる。

 

 ――ヴォ……ォ……。


 「切れ!」

 

 巳影が命じると同時に、通信兵が電源を落とす。

 ノイズが止まり、静寂が戻る。

 しかし静寂はさっきより重く、暗い。


 「……いるな」

 

 北原が唾を飲み込む。


 「この辺り一帯が……“そいつの家”みたいだ」


 「縄張りだろう」

 

 巳影の答えは簡潔だった。

 

 森の奥で、空気が揺れた。

 音ではない。

 気配だ。

 斜面のどこかで――“何かが立った”。

 南が巳影の袖を掴みかけ、怯えた息を漏らす。

 巳影は袖を振り払わず、逆にそっと一度だけ握り返す。

 

 「離れるな。いいな」


 「……はい」


 「一度、基地に戻る」

 

 巳影は班員に命じる。


 「ここには“結果”しか残っていない。原因は……まだ森の中だ」

 

 その瞬間。

 ――ズ……ッ。

 音もなく、斜面のどこかで“地面が沈んだ”ような気配が充満した。

 兵の肌が一斉に粟立つ。


 (……今のは間違いなく、生き物の重さだ)

 

 巳影は、森の奥を睨んだまま後退を始める。


 「絶対に背を向けるな。足を狙われたら帰れなくなるぞ」


 「全員、ゆっくり下がれぇッ!!」

 

 北原の声が斜面に低く響く。

 兵たちは走り出したい衝動を必死に抑え、訓練通りの歩幅で後退する。

 黒い森影が、かすかに揺れた。

 一本の木の“隣”が揺れたように見えた。


 (……立っている)

 (あれは、もう“熊”じゃない)

 

 柵が見えた。

 その瞬間、兵たちの緊張が弛緩し、何人かが大きく息を吐く。


 「……っはぁ……!」

 

 安堵から膝に手をつき、肩で息をする。

 小銃がダラりと方からずり下がるが、その重さが生を感じさせた。


 「殺る気なら……さっきのあたりで全滅でしたね」


 北原の額には汗がにじんでいた。


 「そうだな」

 

 巳影は森へ目をやる。


 (あれは“試していた”。我々がどれほどの脅威か)


 「最悪なのは……『まだ殺す価値はない』と思われたことだ。

 必ず次がある……」


 巳影の低い声に、南は震えた。

 

 その日の報告書の末尾には、巳影少佐の追記が残された。


《――あれは熊とは呼べぬ“何か”である。

 危険度は、戦場と同等。》


 北域の森の奥では、銀灰色の巨大な影が、風もないのにわずかに揺れていた。

 ――ヴォ……。

 その呼気は、地面を震わせるほど重かった。

 狩りは、まだ終わっていない。

 いや、始まりですらないのかもしれなかった。

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