第三話 沈黙した指令基地と北側集落
北域の浜辺は、思っていたよりも狭かった。
だが巳影朝人の足裏に伝わる地面の感触は、その狭さとは裏腹に、底知れぬ深さを孕んでいた。
砂利でも砂でもない。
雪解け水を吸いすぎた黒い泥が、軍靴の底にじわりと食いついてくる。
「……上陸完了。各班、点呼を取れ」
仮設の桟橋から次々に降りてくる兵たちの靴音が、湿った大地に吸い込まれていく。
輸送船《あけぼの丸》は白い排煙を吐きながら、ゆっくり沖へと離れていった。
帰り道を名残惜しむように、何人かの兵が振り返る。
だが、巳影少佐は見なかった。
――戦場では、“帰り道を想像した者”から死ぬ。
「巳影班、全員揃ってます」
北原伍長が、小銃を肩から下ろして報告する。
その横で南二等兵が、緊張でぎこちない敬礼をした。
「巳影少佐、総員、上陸完了しました!」
「了解。物資と兵装の確認後、司令基地へ向かう」
丘の上に見える木造施設群――北域司令基地。
かつて“復興の象徴”として建てられたはずのこの拠点には、煙一つ上がっていない。
まるで町そのものが“息をしていない”みたいに感じた。
◆
行軍が始まった。
列をなす兵たちの足取りは重く、どこか上陸直後の高揚感とはかけ離れている。
潮の匂いは薄れ、代わりに湿った土の匂いだけが濃くなっていく。
奇妙なことに、鳥がいない。
風も、木々を鳴らさない。
ただ、兵士たちの軍靴が雪混じりの黒土を踏む音だけが、妙に生々しく響く。
――ザク、ザク。
――ザク、ザク。
(……静かすぎる)
巳影は思う。
ただの山奥では出ない沈黙。
これは、何か“理由があって”作られた沈黙だと。
◆
司令基地の外観は、遠目にはまだ“生きて”いた。
屋根は落ちておらず、外壁も壊れていない。
だが、近づけばわかる。
窓ガラスのひび。
扉の内側から押し破られたような歪み。
壁に残る、乾いた泥の手形らしき痕跡。
「……気配がねぇ」
北原が低く呟く。
「先行班は戻っていないのか?」
巳影が通信兵に尋ねる。
「はっ。二時間前に“基地が見えた”との無線があったのが最後で……。
その後は混線が続いております」
「混線?」
「昨夜、船でも少しあった……あのノイズです」
通信兵は言葉を選ぶように声を落とす。
「故障……と、思いたいのですが」
◆
司令棟前で各班が集まると、統括の岩倉中佐が現れた。
「状況は、予定より悪い」
その声は重かった。
「先行の開拓班・警備班、合わせて三個分隊との連絡が途絶。
設備の稼働もほぼ停止状態。
本任務は、すでに“周辺調査”ではなく“生存確認任務”へ移行している」
ざわり、と空気が揺れた。
「巳影少佐」
「はい」
「貴官の班には、北側集落の確認を命ずる。慎重に当たれ」
「承知しました」
巳影は敬礼し、部下たちを率いて北側へと向かった。
◆
集落は、基地から少し外れた斜面に並んでいた。
木造の平屋が十数棟。畑だった黒い土が広がっている。
……だが、作物は一本も残っていない。
抜かれた跡だけが残る。
荒らされた痕跡ではない。
もっと“計画的に、まとめて回収された”ような跡。
「少佐、こっちの家……」
北原が一軒の家の前で手招きする。
玄関の扉の金具が、内側から強い力で曲がっていた。
「……中、確認する」
巳影は先頭に立ち、家屋へ侵入した。
◆
室内は、人が暮らしていた痕跡を色濃く残していた。
整然と並ぶ茶碗。
囲炉裏の灰。
掛けっぱなしの衣服。
だが――
(人が、いない)
寒さだけではない“空虚”が満ちている。
床板のあちこちが黒く変色していた。
「……血、ですね」
南の声が震える。
「時間は経っているが、量は多い」
巳影は床を指でなぞり、その溝に溜まった黒色を確認した。
その痕跡は、家の奥から玄関へ向かって引きずられていた。
(抵抗した形跡が、ない)
荒らされた家具もなければ、逃げ場へ向かった足跡もない。
ただ“運び出された”跡だけがある。
「獣の仕業にしちゃ……整いすぎてますね」
北原の言葉は正しい。
(これは……狩りだ)
巳影の胃の奥がじわりと重くなる。
◆
外に出た瞬間、風の匂いが変わった。
血の残り香が濃い。
「他の家もほぼ同じパターンっす!」
家々を回っていた兵が駆け寄る。
「血痕はあるけど、遺体が……ひとつも……」
「家畜も、全滅してるみたいです!」
別の兵が報告する。
「牧柵の木が、内側にじゃなく、外側に向かって折れてました!」
「……押し潰されたのか?」
巳影は、斜面下の森へ視線を向けた。
黒く沈んだ木々が並び、光を拒んでいる。
その奥から、冷気が流れてくる。
◆
突如、無線機が悲鳴を上げた。
「ッザ……ザザッ……!」
「ひっ……!」
南が肩を跳ねさせ、耳を押さえる。
混線に混じり、低い“呼気”のような音が聞こえる。
――ヴォ……ォ……。
「切れ!」
巳影が命じると同時に、通信兵が電源を落とす。
ノイズが止まり、静寂が戻る。
しかし静寂はさっきより重く、暗い。
「……いるな」
北原が唾を飲み込む。
「この辺り一帯が……“そいつの家”みたいだ」
「縄張りだろう」
巳影の答えは簡潔だった。
◆
森の奥で、空気が揺れた。
音ではない。
気配だ。
斜面のどこかで――“何かが立った”。
南が巳影の袖を掴みかけ、怯えた息を漏らす。
巳影は袖を振り払わず、逆にそっと一度だけ握り返す。
「離れるな。いいな」
「……はい」
「一度、基地に戻る」
巳影は班員に命じる。
「ここには“結果”しか残っていない。原因は……まだ森の中だ」
その瞬間。
――ズ……ッ。
音もなく、斜面のどこかで“地面が沈んだ”ような気配が充満した。
兵の肌が一斉に粟立つ。
(……今のは間違いなく、生き物の重さだ)
巳影は、森の奥を睨んだまま後退を始める。
「絶対に背を向けるな。足を狙われたら帰れなくなるぞ」
「全員、ゆっくり下がれぇッ!!」
北原の声が斜面に低く響く。
兵たちは走り出したい衝動を必死に抑え、訓練通りの歩幅で後退する。
黒い森影が、かすかに揺れた。
一本の木の“隣”が揺れたように見えた。
(……立っている)
(あれは、もう“熊”じゃない)
◆
柵が見えた。
その瞬間、兵たちの緊張が弛緩し、何人かが大きく息を吐く。
「……っはぁ……!」
安堵から膝に手をつき、肩で息をする。
小銃がダラりと方からずり下がるが、その重さが生を感じさせた。
「殺る気なら……さっきのあたりで全滅でしたね」
北原の額には汗がにじんでいた。
「そうだな」
巳影は森へ目をやる。
(あれは“試していた”。我々がどれほどの脅威か)
「最悪なのは……『まだ殺す価値はない』と思われたことだ。
必ず次がある……」
巳影の低い声に、南は震えた。
◆
その日の報告書の末尾には、巳影少佐の追記が残された。
《――あれは熊とは呼べぬ“何か”である。
危険度は、戦場と同等。》
北域の森の奥では、銀灰色の巨大な影が、風もないのにわずかに揺れていた。
――ヴォ……。
その呼気は、地面を震わせるほど重かった。
狩りは、まだ終わっていない。
いや、始まりですらないのかもしれなかった。




