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ケモノノ巣域 ──白岳の王討伐戦──  作者: 夢虚
第一章 白岳の王討伐戦
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第二話 薄闇の輸送船《あけぼの丸》

 輸送船《あけぼの丸》は、薄闇に沈む水平線の上を、音もなく進んでいた。

 帝都を離れて二日。

 外海に出てから、空気は少しずつ重くなっていく。

 

 巳影(みかげ)朝人(あさと)少佐の胸の底に沈んだ感覚は、海底の泥のように動こうとしなかった。

 船腹に砕けた白い波頭が、灰色の空へ跳ねては消える。

 本来なら心地よいはずのそのリズムが、今日はやけに耳障りに感じた。

 

 「……あれが、北域か」

 

 甲板の手すりに片手を置き、巳影は遠くの景色の輪郭を見つめた。

 風は冷たい。

 季節としては冬の終わりのはずなのに、その冷たさには“春への移り変わり”の気配がない。

 ただ、北へ向かうほど、温度ではない“何か”が削がれていく。


 霞む山影。その稜線は、不自然なほど歪んでいた。

 自然に削れた山の線ではない。

 まるで、巨大な何かが這い進んだ痕跡のように、山肌が不格好に抉れている。

 

 「少佐、ずいぶん寒そうですねぇ」

 

 後ろから、北原伍長がひょいと顔を出した。

 軽口めいた声だが、視線は巳影と同じく山を見ている。


 「……形が悪い」


 「形?」


 「山の稜線だ。あれは“削れ方”がおかしい」

 

 巳影は短く答えた。


 「風や雪でああはならん。……何かが這いずったか、抉ったかだ」


 「はは……やめてくださいよ、そういう話は」


 北原は笑ってみせるが、その笑いは乾いていた。

 

 風がひときわ強く吹きつけ、甲板の旗がばさりと音を立てる。

 塩の匂いに混じって、どこか懐かしい“焦げた匂い”が鼻の奥をくすぐった。

 十年前の戦場の匂いだ。

 


 船内へ戻ると、通路の隅で南二等兵が毛布にくるまっていた。

 肩をすくめ、寒さに耐えるように膝を抱えている。


 「南」

 

 名前を呼ぶと、短髪黒髪の彼――いや、彼女はびくりと肩を跳ねさせた。


 「み、巳影少佐……! お、おはようございます!」


 「体調はどうだ」


 「さ、寒いです……! その、なんか……骨の中まで冷える感じで……」


 言葉を探しながら、南は自分の胸に手を当てた。


 「ここが、ずっとスースーするというか……」


 船内には暖房が入っている。

 外気ほどの寒さはないはずだ。

 巳影は一歩近づき、南の呼吸を観察した。


 「息が浅いな。深呼吸をしてみろ」


 「えっ……あ、はい……っ」


 南は素直に従い、息を吸い込もうとする。

 だが、途中で顔をしかめた。


 「……あれ、奥まで入ってこない……感じが……」


 肺に入るはずの空気が、胸の手前で引き返していくような違和感。

 南は自分の身体なのに、うまく扱えないような不安そうな表情を浮かべている。

 巳影は静かに息を吸い込み、空気の質を確かめた。

 塩。鉄。

 そして――焦げた土。

 それに混じる、野生動物の湿った呼気の残り香。


 (……この匂いは、知っている)

 

 十年前の市街地戦。

 爆ぜた土嚢。

 崩れた建物の隙間で、焼けた肉と血と、雨に濡れた獣の匂いが混ざりあっていた。


 「南」


 「は、はい」


 「無理に慣れようとするな。この寒さは“気温”じゃない」


 南はきょとんとした顔で巳影を見上げる。

 

 「ここは、“人間の空気”じゃない場所に近づいている。……その反応だ」


 意味をすぐに理解できたわけではないだろう。

 それでも南は、小さく頷いた。


 「……少佐は、怖くないんですか」


 「怖くないわけがない」

 

 巳影は淡々と答えた。


 「怖さを認めるかどうかだ。認めた上で、足を前に出す」


 その言葉は、自分自身に向けたものでもあった。

 

 夕刻。

 北方の空が赤黒く染まり始めたころ、船内放送が短く鳴った。


 ――ザザッ。


 「……?」


 巳影は足を止めた。

 北原が壁際のスピーカーに駆け寄り、ボリュームを調整する。


 「故障っすかね。周波数は合ってるはずなんすけど……」


 ノイズが濃くなり、次第に“別の音”を孕み始める。


 ――ザァァァ……。

 ――……ヅ、ズ……。


 硬いもの同士が擦れるのではない。

 もっと柔らかい、湿った、肉の塊が地面を引きずられるような音。

 そして、その奥に。


 ――ヴォ……ォ……。


 低い、湿った呼気のようなものが混じった。

 南が青ざめる。


 「い、今の……声ですか……?」


 「普通の、獣の声ではないな……」

 

 巳影は即答した。


 「これはこちらに向けて“投げてきている”音だ」

 

 北原の喉が、小さく鳴った。


 「少佐。つまり……」


 「ああ。歓迎の挨拶というには、ずいぶん趣味が悪いな」

 

 夜。

 《あけぼの丸》が北域の沿岸へ近づいた頃、甲板の灯りが一つ、ふっと消えた。

 風がやむ。

 波の音が遠のく。

 世界そのものが、一瞬だけ“息を止めた”。


 「……少佐。静かすぎません?」

 

 甲板の端で北原が呟く。


 「南は?」


 「船室で待機させてます。顔が真っ青だったんで」


 「賢明だ」

 

 巳影は答え、海の方を見る。

 闇と水面の境界が分からない。

 その境目の一か所に不自然なほど、“別のもの”の輪郭が混ざっている。

 視界の端が、わずかに揺れた気がした。

 黒い海の上。

 波とは逆方向に、ゆっくり動く影。


 (……違う)


 巳影は目を細める。


 (あれは波じゃない。“歩いている”)

 

 海面すれすれの浅瀬を、何かが重い足取りで進んでいる。


 ――ズ……ッ。

 ――ズズ……ッ。


 雪がないはずの海辺なのに、“雪を踏みしめる音”が頭の中で再生された。


 「少佐……?」


 北原が声を潜める。


 「北原。南から目を離すな」


 「了解。でも、少佐は?」


 「目を逸らした方が負けだ。……あれはそういう類の“何か”だ」


 黒い影は、しばらく海と陸の境をなぞるように動き――

 ふいに、海そのものへ溶けるように消えた。

 

 灯りが一つ、また一つと戻る。

 風が、何事もなかったかのように船の帆を揺らした。

 だが、巳影の胸には、ひとつの確信が残っていた。

 これは調査でも開拓でもない。

 “王”の縄張りへ踏み込む、戦争だ。

 

 北域の影は、まだ“遠くから見ていた”だけに過ぎない。

 だが、巳影の中では、既に戦場の匂いが立ち上がり始ていた。

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