第一話 復興と不穏の予兆
――ザッ……ザッ……ベリッ……。
耳の奥に残る、不快な音。何かを剥がす音。
つい先ほどまで仲間”だった”アイツの顔が、黒く塗りつぶされたみたいに、もう思い出せなかった。
薄明りの中、冷え込んだ部屋の空気で目が覚める。
戦争が終わって十年が経つというのに、帝都の空気にはまだ、焼け焦げた鉄と油の臭いが微かに沈んでいた。
その戦禍の残り香を覆い隠すように、街路の舗装整備が進められている。
見渡す限りの港街。
日ノ本帝国軍北方司令塔が、街の中央に鎮座し街のシンボルとなっている。
季節は冬の終わりが近いはずなのに、今日の海風は軍港の建物を容赦なく冷やし、巳影朝人少佐の頬を刺した。
司令室のある中央司令部棟の廊下を歩くと、部屋の中から兵士たちの会話が漏れ聞こえてくる。
『聞いたか?』 『ああ、また誰も帰還しなかったらしいな……』
『これで三回目だろ? あの噂って本当なのかもな……』
『それに、お前見たか? 回収された兵装に付いたあの傷……どんな化け物がいるんだよって感じだよな』
『見た見た。あんな大きな爪痕……上層部はひた隠しにしてるって話だしなぁ』
『しかも、もう次の派遣部隊に声がかかってるらしいぞ。次は俺たちかもな……』
『おい、やめろって。白岳山域だけはシャレにならねぇって』
憂鬱な気持ちのまま、司令室の扉を開けた瞬間、胸の奥がざわつく。
――その理由は自分が一番よく知っている。ただ、それを認めたくないだけだ。
机の上の命令書には、鮮やかな赤色の判が押されていた。
一通の封筒の中に、2枚の紙が折り畳まれている。
《北域開発計画 任務へ派遣》
《極秘指定・再三の派遣部隊壊滅に伴う軍直接指揮を要請》
巳影は無意識に、愛銃のしまわれた腰のホルスターへ手を伸ばした。
冷たい金属へ触れた瞬間、わずかな震えが走る。
――また、これだ。
ごく短い、ほんの刹那の震え。
だが、それは“前触れ”だった。
かつて戦場で味わった、あの白い閃光の直前に訪れる“あの感じ”に近い。
「……少佐?」
背後から北原伍長の声がした。
巳影は冷たい金属部から手を離し、息を整える。
「問題ない。行くぞ」
北原は、それ以上何も言わなかった。
巳影が時折見せる“静かな震え”の意味を知っている者だけが浮かべる表情をして、ただ側に立っていた。
夕刻。
巳影は配属区画へ戻ると、軍靴を脱ぎ、椅子へ腰を落とした。
薪ストーブの火が赤く揺れ、壁に映る影がゆらりと伸びる。
呼吸は整えているつもりなのに、胸の奥だけが妙に熱
い。
いや、熱いというよりも “軋む”。
――バンッ。
視界が白く弾けた。
破裂音。叫び声。銃声。赤い霧。
倒れた仲間の影。
頬をかすめる黒い毛。ドロッとした何かが視界をどす黒く染め上げる。
引き金にかかったままの自分の指。
しかし引けない。動かない。凍りつく。
「……ッ」
巳影は額を押さえ、強く目を閉じた。
そうすることで幻影は数秒で消え、現実の静けさだけが残った。
自室の扉がノックされた。
「巳影少佐。明朝には出航です。ご準備を」
「ああ」
北原の目が、一瞬だけ巳影の状態を読み取って曇る。
しかし彼は何も言わず、静かに去った。
巳影は窓へ目を向ける。
海は黒と灰色の境目を濁らせるように揺れ続けている。
――禁足の地・白岳山域。
“王”と呼ばれる巨大獣が棲むと噂される北域。
胸の奥の痛みは、戦争で失ったものの残響だろうか。
いや、いまだ手放せずにいる影だろう。
そして――その影は、雪と血の匂いと結びついて離れなかった。
その夜、巳影は浅い眠りについた。
夢の中で、白い閃光が何度も何度も弾ける。
倒れていく仲間の影。届かない叫び。
動かない指。
北域の暗闇に踏み込む前から、巳影の戦いはもう始まっていた。




