第0087話 『神という言葉を聞いただけでも、悪魔は滅ぶ』
石畳に浮かぶ逆暗号の光は、まるで蛇のように路地を這い、次々と建物や人々を飲み込んでいった。石化は単なる現象ではなく、意思を持った呪いのように広がっている。
ライネルが苛立ち混じりに吠えた。
「どうすりゃ止まるんだ! 剣も魔法も通じねえ!」
マリーベルも額に汗をにじませ、炎を放ちながら舌打ちする。
「これじゃ、火で焼く前に街ごと石になる!」
その時、アシュレイが群衆の中に埋もれていた一人の青年を見つけた。
「待って! あの人……」
彼女が指差した青年は、他の住民と違い、怯えた様子ではなかった。逆暗号の光をまっすぐ見据え、何かを知っているような眼差しをしていたのだ。
探偵は即座に彼へ駆け寄り、肩を掴んで問い詰めた。
「お前は、この暗号を知っているな?」
青年は苦渋の表情で首を振る。
「知っては……いる。だが口にすれば俺も石になる」
「ならば、私が聞こう。答える必要はない。ただ頷くだけでいい」
探偵の声は静かだったが、どこか人を安心させる響きを帯びていた。
青年は逡巡し、やがて小さく頷いた。
「……この逆暗号は、守りのための術だ。だが、誰かが反転させてしまった。だから街を護るはずが、街を食らう呪いに変わったんだ」
その言葉にアリアが息をのむ。
「守りの呪い……? 誰かが逆さまに?」
「そうだ。呪文は『正しく読む』ことで初めて力を持つ。だが逆さまに読めば、すべてが災いに変わる」
探偵の脳裏に、石柱の逆さ文字と〈枷〉の模様が重なった。
「……つまり、これは“ひねり”だ」
「ひねり?」
シルヴィアが眉を上げる。
「本来の意味を逆手に取った、悪意のひねり。だからこそ石化は止まらない」
ライネルが苛立ち混じりに言う。
「なら、どうやって解く?」
探偵は石畳に刻まれた光の文字を凝視し、低く呟いた。
「逆にされた暗号を、さらに逆に戻す。正しく読むことだ」
青年が血相を変える。
「だが、それを声に出して読んだ者は……石になるんだ!」
場が凍りついた。
誰も進んで石になることなど望まない。
だが探偵は一歩、前へ出た。
「ならば私が読む。依頼を受けた以上、ここで立ち止まるわけにはいかない」
アシュレイが慌てて彼の袖を掴んだ。
「そんなの駄目よ! 石になるかもしれないのに!」
「誰かが試さねば街は救えない」
「だったら私が……!」
彼女の瞳は真剣だった。しかし探偵は首を振り、彼女の手をやさしく外した。
「君はまだ生きて人々を守れる。だから、ここは私が行く」
重い沈黙が流れた。仲間たちも言葉を失い、ただ探偵の背中を見つめている。
探偵は石畳の中央へ歩み出ると、逆さに刻まれた光の文字をひとつひとつ、正しい形に直して読み上げていった。
「……『神という言葉を聞いただけでも、悪魔は滅ぶ』」
その瞬間、街全体に重苦しい轟音が響き、石化の波がぴたりと止まった。灰色の壁は砕け散り、囚われていた人々がゆっくりと肉体の温もりを取り戻していく。
アシュレイが涙を浮かべて叫んだ。
「止まった……! 本当に止まったわ!」
だが探偵の足元には、不気味な亀裂が走っていた。逆暗号の力は完全には消えていない。むしろ次なる段階に進もうとしているかのようだった。
ドルグの声が、広場の奥から響いてきた。
「お見事だな。だが解いたがゆえに、お前はもう“合言葉”を避けられまい」
嘲笑を残し、ドルグは姿を消す。
探偵は静かに息をつき、仲間たちに言った。
「……これは始まりにすぎない。次は“逆・合言葉”が待っている」
こうして石化の街は一応の救済を見たが、逆暗号の謎は完全には解けていなかった。
闇の奥で、さらなる試練が牙を剥こうとしていた。




