第0086話 “誰も解いてはならぬ。解く者は、石と化す”
石柱の前で言葉を失っていた一行に、恐る恐る近づいてくる影があった。痩せこけた老婆で、震える手に木の皿を抱えている。皿の上には硬くなったパンが置かれていたが、それも半ば石へと変わりかけていた。
「……この街を助けてくださいな」
老婆は探偵の外套を握りしめた。
「逆暗号が刻まれてから、日ごとに石の領域は広がっていくのです。昨日は夫が、今朝は隣の娘が……」
言葉の端々に、長い慟哭の痕跡が滲んでいた。
アシュレイは老婆の肩をそっと抱き寄せ、酒場で見せる包容力のままに語りかけた。
「大丈夫。必ず原因を突き止めるわ。ねえ、探偵さん?」
探偵は頷き、老婆に約束の言葉を告げた。
「必ず。ここで暮らす人々が石像のまま終わることはない」
すると老婆は震える指先で石柱を指した。
「あの刻まれた文字……時折、夜になると逆さまに光を放つのです。見た者は口を閉ざし、やがて石となる」
言葉の重みを噛みしめる一行。
ライネルは石柱を睨みながら低く呟いた。
「呪いにしては緻密すぎる。誰かが意図して仕掛けている……そんな匂いがするな」
シルヴィアが肩をすくめる。
「まあ、こんなの盗賊団でも御免だわ。石になったら宝も持ち逃げできないしね」
マリーベルは苛立ちを隠さず、杖の先で石柱を小突いた。
「焼き尽くしてやろうかしら」
アリアが慌てて彼女の手を抑える。
「やめて……火で壊してしまったら、手がかりがなくなるもの」
そんな仲間たちのやり取りを横目に、探偵は柱に刻まれた文字を丁寧に読み取っていった。逆さまの記号は、ところどころに歪みがあり、まるで「鏡に映した文章」を無理やり刻み込んだかのようだ。
やがてアシュレイが、小さく声を上げた。
「ねえ、これ……枷の形に似てない?」
彼女が指さしたのは、柱の中央に浮き上がる曲線の連なりだった。鉄の枷を模したような、鎖の輪を繋いだ模様が、確かにそこにあった。
「枷……」
探偵は目を細め、柱の下部に彫られた文字を確認した。
そこには――“誰も解いてはならぬ。解く者は、石と化す”――と逆さに刻まれていた。
緊張が走ったその時だった。
遠くから、怒声と悲鳴が入り混じった音が響いてきた。広場に駆け込んできた若者が叫ぶ。
「北の区画で、また石化が広がった! 人が、家ごと飲み込まれてる!」
探偵と仲間たちは顔を見合わせ、一斉に駆け出した。
街の北部――そこでは、石の波がまるで生き物のように壁を這い、通りを飲み込んでいく光景が広がっていた。家々の扉が灰色の塊に変わり、逃げ遅れた人々の姿が一瞬で硬直していく。
ライネルが剣を抜き、石化の波へ斬りかかる。しかし剣先は虚しく灰色の壁に弾かれ、逆に刃が欠けた。
「くっ……効かない!」
マリーベルが炎を放ち、シルヴィアが身軽に人々を救い出し、アリアが必死に祈りの言葉を紡ぐ。だが石化の波は止まらない。
探偵は状況を見渡し、石化の中心に異様な光があるのに気づいた。
「……あそこだ!」
石柱の模様と同じ逆暗号が、路地の石畳に浮かび上がっていた。
その光を見つけた瞬間、探偵の胸中に直感が走った。
――逆暗号を解かねば、この街は終わる。




