第0078話 雨の謎
酒場「四葉亭」を後にすると、港町の通りには再び湿り気を帯びた風が吹きつけていた。
夜の帳が降りかけ、瓦屋根の隙間からはどこか禍々しい雨雲が覗いている。
「雨の夜に、人が消える……」
アリアが小さく呟き、胸元の聖印に触れた。
「本当に、雨そのものが人を呑み込むのかしら。」
「そんな馬鹿な。」
マリーベルは鼻を鳴らし、杖を石畳に突き立てた。
「ただの失踪に尾ひれがついただけ。けどね、魔術的な因果が絡むなら……話は別。」
シルヴィアは肩をすくめ、軽い調子で応じる。
「どっちにしても、あたしらの仕事は『真相を突き止める』ってことよ。怪物でも幽霊でも、しょせんは依頼と報酬の話。」
その軽口を、ライネルは黙したまま聞き流していた。
彼の視線はすでに町の古書店へ向けられている。依頼の糸口を求め、情報を集めるのは常道だった。
古書店「リューネ堂」の店主は、背の曲がった老人であった。
埃をかぶった棚から一冊の羊皮紙本を取り出すと、探偵団の前に置いた。
「……この町には、昔から奇妙な伝承がある。」
老人の声は乾いていた。
「“猿の化身”――いや、“逆さ猿”と呼ばれるものよ。人に心を与え、そして奪う存在だ。」
ページをめくれば、粗い木版画が浮かぶ。逆立ちした猿の姿が、黒い雨の中に描かれていた。
「やつはこう言ったそうだ。『心を与えてもよい』とな。だが与えられた心は、雨とともに溶ける……。」
アリアは息を呑み、ライネルは無言のまま拳を握る。
マリーベルは苛立ったように吐き捨てた。
「くだらない迷信。でも、雨に関わる伝承ってのが厄介ね。」
「怪しいもんだぜ。」
シルヴィアは本をぱたんと閉じ、笑みを浮かべた。
「けどさ、依頼人の兄貴が消えた夜に雨が降ってたんだろ? 偶然って言うにはできすぎだね。」
老人は肩をすくめ、目を伏せた。
「気をつけなされ……夜の雨は、この町を蝕む。」
その夜、探偵団は町の広場で見張りをしていた。
霧が低く流れ、灯火の明かりが揺れる。
「……降り始めたな。」
ライネルが低く呟いた。空からぽつり、ぽつりと雨粒が落ちてくる。
広場の片隅にいた町人が、慌てて家へ駆け込もうとした――が、その瞬間だった。
水滴に濡れた彼の姿が、一瞬にして掻き消えたのだ。
「なっ……!」
アリアの声が裏返る。
マリーベルは杖を構え、シルヴィアは本能的に短剣を抜いた。
だが、そこには何もいなかった。
地面には靴跡さえ残らず、雨粒だけが虚しく石畳を濡らしている。
「これが……“不吉な雨”の正体か。」
ライネルの声は低く震えていた。
その時、背後から聞き覚えのある声が響いた。
「やれやれ……まったく、遅いじゃないか。」
振り向けば、黒い帽子を被った男が立っていた。
探偵ドルグ――ライネルたちの因縁のライバル。長身に細身の体躯、油断のない目が雨に光る。
「ドルグ……!」
マリーベルが敵意を隠さずに吐き捨てる。
「お前らも失踪事件を追っていたのか。」
ドルグは皮肉げな笑みを浮かべる。
「俺も依頼を受けている。だが――真実を突き止め、栄誉を得るのは俺だ。」
シルヴィアが肩を揺らして笑った。
「また出たね、負け犬根性丸出しの探偵サマ。あんた、いつも人の後ろばっか追いかけてない?」
「ふん。」
ドルグは一瞥をくれ、濡れたマントを翻した。
「雨の謎は俺が解く。お前らはせいぜい……俺の影を追うことだ。」
そう言い残し、闇の路地へと姿を消した。
残された探偵団は雨に打たれながら、ただ黙して立ち尽くす。
広場に消えた町人の痕跡も、ドルグの足音も、雨音にかき消されていった。
アリアは震える声で呟く。
「本当に、人を……雨が……。」
ライネルは拳を握りしめ、冷たく応じた。
「必ず暴く。怪物の正体も、雨の真実も。」
その誓いの言葉が、雨の夜の帳に重く沈んでいった。




