第0072話 彼の足取り
石畳に夜露が降りはじめる頃、酒場〈四葉亭〉は
昼の喧騒とは異なる静けさに包まれていた。
灯されたランプの光は、琥珀色の輪郭を揺らめかせ、
木の柱にかすかな影を落としている。
常連客の声は遠ざかり、残るのは低い囁きと、
乾いたグラスが卓上に置かれる音ばかりだった。
私はカウンターの端に腰掛け、
磨き込まれた木肌の感触を指先に感じながら、
依頼人の言葉を反芻していた。
彼女の眼差しは、あまりにもまっすぐで、
なおかつ過去の影に縛られている。
真実を求める姿勢と、語りたがらぬ沈黙が、
同じ眼差しの奥に同居しているのだ。
その沈黙を解くため、〈四葉亭〉に集う顔ぶれへと視線を巡らせる。
給仕の少女マリエは、今日も素早い手つきでジョッキを並べているが、
どこか上の空に見えた。
背後では吟遊詩人が、旋律の途切れたリュートを抱え、
指を遊ばせている。
ひとりひとりが、依頼人の過去へつながる断片を
抱えているのではないか――そう思わせる緊張が、場を支配していた。
そんな折、重い扉が軋む音が響いた。
振り返った瞬間、背筋に冷たいものが走る。入ってきたのは、
黒い外套に身を包んだ大柄な男――ライバル探偵、ドルグであった。
彼の足取りは、まるで床板を試すかのようにゆっくりと、
しかし確実にこちらへ向かっていた。
獣の目のように鋭い眼光が、酒場に居合わせた者たちをひとり残らず値踏みする。
常連客たちでさえ、口を閉ざし、椅子を引き寄せるようにして視線を逸らした。
「……また会ったな」
低く、地を這うような声。ドルグはカウンターの反対側に腰を下ろし、
無造作に指を鳴らす。
給仕のマリエが恐る恐る近寄ると、
彼は「黒麦酒を」と一言だけ告げた。
その仕草を見届けながら、私は心の奥底で警戒を強めた。
ドルグはただの探偵ではない。
彼が動くとき、それは事件が新たな局面を迎える予兆に他ならなかった。
やがて彼の視線が、依頼人へと移る。
「……お前が、例の“過去を隠した女”か」
その言葉に、酒場全体の空気が硬直する。
依頼人の肩がわずかに震え、握ったカップから酒が滴った。
私はとっさに会話を遮った。
「ドルグ、ここはお前の探偵事務所じゃない。情報を引きずり出す場でもない」
しかし彼は唇を歪め、挑発するように笑うだけだった。
「ならば酒場は、真実を酔わせて吐かせる場でもあるだろう?」
マリエが視線を泳がせ、吟遊詩人のリュートが一弦だけ、不意に鳴った。
緊張が波紋のように広がる。
依頼人は沈黙のまま俯き、ドルグはその沈黙を「答え」と受け取ったように、
ふてぶてしく口元を拭った。
四葉亭の空気は、もはやただの酒場のそれではなかった。
過去を追う者、過去に追われる者、そして過去を暴こうとする者。
三つの思惑がひとつの空間に収束し、次に発せられる言葉ひとつで、
均衡は容易に崩れ落ちるだろう。




