第0313話 雨の影が襲いかかってきた
◆◆ “雨の影”を見た夜
井戸の底で蠢いた“雨の影”は、アシュレイの脳裏に焼きついたまま離れなかった。
形を持たず、輪郭も曖昧な水の塊。
波紋のように揺れながら、確かにこちらへ“視線”を向けていた。
——あれは、生き物なのか。
——それとも……“現象”そのものなのか。
それすら判断できなかった。
夜風が吹き抜ける。
普段なら肌を撫でていくはずの風に、今は何かの“湿り気”が混ざっていた。
雨雲の気配すらないのに、どこかに水がある。
ドルグはそれを“雨が動き始めた”と言った。
意味はまだ分からない。
しかしあの男は何かを知っている。
そしてアシュレイを止めようとした。
——だが、それでも進まなければならない。
ミレーの最期の足跡も、ルーベルト家の冷たい空気も、あの印章も。
すべてが、この“雨”に繋がっている。
アシュレイは夜の石畳を歩きながら、胸の内で静かに反論した。
“嫌な感情は、真実を見つけ出すための道しるべだ。”
恐れるべきではない。
むしろ、拒むべき感情にこそ、答えが宿っている。
雨の音がつきまとい続けても、足は止まらなかった。
◆◆ 四葉亭の夜明け前
まだ日が昇らない薄闇の時間。
酒場「四葉亭」は静まり返り、客の気配はない。
しかし、狂言回しである四人の影だけはそこにあった。
土属性の暗い騎士ライネル。
風属性のちゃらんぽらんな女盗賊シルヴィア。
火属性の怒りっぽい女魔法使いマリーベル。
水属性の寂しがり屋の女僧侶アリア。
四人はアシュレイの帰りを待っていた。
扉が開いたとき、最初に反応したのはマリーベルだった。
「遅いッ!!
また無茶したわね、顔を見れば分かる!」
怒りの炎を宿した瞳は、しかし心配の色も濃い。
アシュレイは軽く手を上げた。
「調査が少し難航してな。」
「少し、で済ませる気?」
マリーベルは食い下がる。
シルヴィアがカウンターに腰掛け、足をぶらぶら揺らした。
「ま、死んで戻らなかっただけマシよ。
で? 何を見つけてきたの?」
ライネルは黙ったままアシュレイを観察していた。
その沈黙が逆に鋭く、彼の変化を見逃さない。
アリアは祈るように胸の前で手を組み、小さく息を呑んだ。
「……また“雨”を、見たの……?」
アシュレイはうなずいた。
「井戸の底に“何か”がいた。
形はないが、確かに……俺を見た。」
四人の表情が変わった。
不吉なものを感じ取ったように、それぞれの属性に反応が現れる。
マリーベルの炎が揺れ、
シルヴィアの風が少し強く吹き、
アリアの掌には露のような水滴が浮かび、
ライネルの足元の土がわずかに震えた。
「……面倒な事態になってきたわね。」
シルヴィアが言う。
アシュレイは懐から、ドルグが見せた印章の写しを取り出して机に置いた。
雨滴の紋章。
“雨を呼ぶ者”が持つという印章。
「ドルグはこれを“ミレーが最後に持っていた”と言った。
だが、それ以上は何も語ろうとしなかった。」
マリーベルが怒気を含んだ声で言う。
「ドルグは何か隠してる!
知っているのよ、アイツは!」
アリアは不安そうに印章を見つめた。
「……雨を呼ぶ者……。
伝承でしか聞いたことないわ。
自然現象と意志の境界が曖昧な存在……」
ライネルが低い声で呟く。
「つまり“境界を失った者たち”か。」
アシュレイは頷いた。
「今回のテーマはまさに“境界の喪失”だ。
復讐の境界、罪の境界、そして……現象と生き物の境界。
すべてが曖昧化している。」
四葉亭の静けさの中、アシュレイは四人の目を順に見つめる。
「頼みたい。
これから“雨”を調べる計画を立てたい。」
シルヴィアがニヤリと笑う。
「盗賊の出番なら任せときな。
隠された痕跡、ぜぇんぶ掘り出してあげる。」
マリーベルが腕を組む。
「魔法で見える“目に見えないもの”くらい、いくらでも照らしてあげるわよ。」
アリアが深くうなずく。
「雨の気配は……私の得意分野。
きっと、追える。」
最後にライネル。
「危険が増す。
だが、お前が行くなら俺も行く。」
これで揃った。
嫌な感情に対する反論は——
仲間と計画だ。
◆◆ “成功の工夫”——雨の痕跡を追う方法
アシュレイは地図を広げ、ヴィゼル街の井戸、ルーベルト家、ミレーの失踪地点を示した。
「雨の影は“水脈”を利用して移動する可能性がある。
街の地下には古い水路網が走っている。
それを洗いざらい調べる。」
マリーベルが手を挙げる。
「でもさ、地下水路って封鎖されてる場所が多いでしょ?
どうやって入るの?」
アシュレイは口元にわずかに笑みを浮かべた。
「……シルヴィアの出番だ。」
「あら、任せてよ。
鍵? 扉? そんなの風みたいにスルーしてあげる。」
次にアリアが地図を覗き込んだ。
「雨の気配を“聴く”ことはできると思う。
どこで濃くなるか……導けるはず。」
「頼りにしている。」
ライネルは地図の端を指で押さえた。
「俺は地中の感触を探る。
雨が地面を濡らした痕跡が、土に残っていれば分かる。」
マリーベルが小さく舌を鳴らす。
「私は魔法で“濡れた空気”の流れを探知するわ。
本来この季節にありえない湿度があれば、ヤツが近い。」
アシュレイは最後に全員を見渡した。
「——これで“雨の影”の動きが読める。」
嫌な感情は胸に残ったままだ。
しかしアシュレイは、その声に反論するように言った。
「恐怖は、準備の欠如から生まれる。
なら……準備すればいい。」
◆◆ 地下水路の“真の姿”
その夜、四人とアシュレイは街の北側にある封鎖扉へ向かった。
シルヴィアが軽く指を鳴らす。
「じゃ、ちょいと失礼。」
細い針金を鍵穴に差し込み、軽やかな動きで内部を操る。
カチリ——
扉が静かに開いた。
湿った冷気が溢れ出す。
アシュレイの嫌な感情が強まった。
その先には、暗い地下水路が広がっていた。
アリアが灯火を掲げると、壁面に無数の“濡れた跡”が浮かび上がる。
「……ここ、最近、誰かが……いえ、“何か”が通った……」
ライネルが床を撫でる。
「土が湿っている。
だが降雨はなかったはず……」
アシュレイは視線を奥へ向けた。
水路の奥で、ぽた……ぽた……と水音が響いていた。
嫌な感情が喉元までせり上がる。
だが彼は言う。
「進むぞ。」
“嫌な感情に待ったをかける”のではなく、
“嫌な感情に反論する”。
そうして一行は進んだ。
◆◆ 水路の中心——“雨の巣”へ
地下水路は次第に広くなり、天井の高さも増していく。
水の匂いが強まるほど、アリアの肩が震え、マリーベルの魔力がざわつく。
やがて、巨大な空洞に到達した。
天井から滴る大量の水滴。
しかし、現実には雨は降っていない。
これはすべて“現象”でありながら、どこか“生き物の呼吸”のようだった。
アシュレイは低く呟いた。
「ここが……“雨の巣”か。」
雨の影は姿を見せない。
しかし、確実に近くにいる。
四人が緊張する。
そのとき——
アシュレイの頭上に雫が落ちた。
冷たい。
あの日と同じ冷たさ。
次の瞬間、天井から巨大な影が落下してきた。
“雨の影”。
形を持たぬ水の怪物が、波紋の身体をうねらせながら、一行の前に立ちはだかった。
アシュレイは一歩前へ踏み出した。
恐怖が胸を突き破ろうとする。
だが、彼は反論する。
「恐怖よ、俺の足を止められると思うな。」
そして剣を構えた。
その瞬間——雨の影が襲いかかってきた。




