第0311話 嫌な感情が街を覆う前に
◆1 雨の匂いは、過去の呼吸に似ていた
六つ目の死体が見つかった翌朝、街を包む雨は弱まるどころか、ますます勢いを増していた。空はどこまでも鉛色で、地面から立ち上がる湿気は、まるで街全体が深い水底に沈みつつあるかのようだった。
四葉亭の窓ガラスには、無数の雨筋が縦に走り、世界をぼやかしている。
ライネルは店の奥の席で、手入れされた剣を陰鬱な目で見つめていた。
土属性の彼は、普段はどっしりと泰然としているが、この雨には何か“悪い兆し”を感じ取っているらしい。
「……雨の匂いが、昨日より濃い」
誰に向けるでもなく、低く呟く。
その言葉は、まるで空気の重さを測るかのようだった。
向かいに座るアリアが、濡れた外套を膝の上にしっかりと畳みながら話しかける。
「ライネル、そんなに雨を気にしているの?」
「気にしない方が不自然だ」
彼は眉を寄せた。
「この雨……どこか、“冷たい息”のような気がする。それでいて、胸の奥を刺すように熱い感じもある」
アリアの手が小さく震えた。
「……熱い息と冷たい息」
「そうだ。あの伝承の通りなら――境界が崩れかけてる証拠だろう」
そこに、くるりと軽やかな足音が近づく。
「アンタたち、本当に陰気よね」
シルヴィアが背後から腰に手を当て、呆れと不安の混じった表情を見せた。
「昨夜あれだけの死体を見て、雨までこんななんだから、もうちょっと明るくしなさいよ、と言いたいけど……無理ね」
「明るくするのはアンタの役目でしょう」
そう言ったのはマリーベルだった。
赤い髪を少し湿らせながら、皮肉をうっすら帯びた笑みを浮かべていたが、瞳は笑っていない。
「さて……今日は本格的に依頼の“代行”に移るわよ。犯人の手口、暗殺者の影、ヴァルドの言動……どれも無視できない」
「情報が散りすぎてるね」
アリアが眉を寄せる。
「散ってるんじゃないわ。誰かが“散らしてる”のよ」
シルヴィアが椅子を回しながら言う。
「狩りをする時、痕跡を消して自分の場所を悟られないようにするでしょ。それと同じ」
「つまり犯人は、こっちが近づいていることに気付いてるのね」
マリーベルが言う。
「例の黒い短剣……あれは“挑発”だ」
ライネルは苦く言った。
「奴は、俺たちの存在を前提に動いている」
「……やっぱり、嫌な感じ」
アリアは胸元を押さえた。
「誰かの憎しみが、雨に溶けて街中に広がってるみたい」
◆2 死体を読む――調査が“呪術的意味”を帯び始める
四人は雨の中、急ぎ足で昨夜の遺体安置所へ向かった。
六つの死体が並べられた部屋は、冷気に包まれているはずなのに、どこかに“熱”の残滓が漂っているように思えた。
「これは……ただの臓器摘出じゃないわ」
マリーベルが遺体の胸元を丁寧に調べながら、分析する。
「切り口が“儀式の線”に沿っている。血の流れを見て。すべて、中央の一点に向かっている」
「中心……?」
アリアが訊く。
「そう。術式の“核”を作るために必要な配置よ。胎児を媒介にする門開きは、魂の出入り口を作るために、身体の中心に血を集めるの。だから肝が必要だったのね」
「じゃあ犯人は……魔術師?」
シルヴィアが顔をしかめる。
「もしくは、魔術師の道具として動く“暗殺者”。
どちらにせよ、目的ははっきりしてるわ」
マリーベルは冷たく言った。
「――門を開く。何かを呼ぶために」
ライネルが奥の遺体に目を向ける。
「こいつ……死後に皮膚が焼けている。熱の跡がある」
「それに」
アリアがそっと触れた腕に、小さな霜がついていた。
「ここは冷たいのに……そのすぐ横は温かいの」
空気が二重になっているようだった。
「……熱い息と冷たい息」
「犯人は確かにその“息”を使っている。伝承は本当だったのよ」
マリーベルがきっぱり言った。
◆3 依頼者ヴァルドの“異変”――壊れていく正義の形
調査を終えて四葉亭に戻ると、ヴァルドが一人、席で酒を飲んでいた。
だが、その姿は以前よりずっと荒んでいた。
髭は伸び、目は赤く、手は震えている。
酒の匂いではなく、もっと“血生臭い”気配をまとっていた。
「……ヴァルドさん、寝てませんね?」
アリアがおそるおそる問う。
「寝られると思うか?」
ヴァルドは冷笑した。
「また死んだ。誰かが殺された。次は誰だ? 私の愛した者たちと同じように苦しむ“誰か”がいるんだぞ」
「だからって、人斬りを続けるのは正義じゃない」
ライネルがきっぱり言う。
「正義? そんなものは、私の娘が死んだ日に消えた!」
ヴァルドは机を叩いた。
「私は犯人がわからないから……似た手口のやつを殺している。それが悪か? 違うだろう。復讐は……私に許された唯一の“愛”だ」
アリアは泣きそうになった。
「そんな……愛じゃありません……! 自分も壊れてしまう……!」
「壊れて構わん」
ヴァルドは静かに言った。
「私はもう、人ではない」
その言葉に、四人は言葉を失った。
雨の音がますます大きくなる。
「熱い息と冷たい息……境界線が曖昧になるとき、人は“変わる”のだとな。
私はもう、人ではない。
――だから、私は罪を気にする必要がない」
寒気が背中を走った。
その瞬間、マリーベルが小さく呟いた。
「まさか……あなた……《影》に囚われてるの?」
ヴァルドの瞳が揺れた。
「……影?」
「復讐の念が濃くなると、人の内側に“影”が生まれるの。境界が崩れた今、あなたは影に飲まれかけてる」
「馬鹿なことを……!」
ヴァルドは否定した。
「私はただ、あいつらを殺したいだけだ!」
だが、四人は気づいていた。
――この男は、すでに“影の気配”を漂わせている。
――このままでは、暗殺者ではなく、ヴァルド自身が“怪物”になる。
◆4 “代行”が始まる――依頼の意味がねじれる
「さて」
シルヴィアが場を引き締めるように立ち上がった。
「依頼者があの調子だからって、仕事はこっちで進めないとね。私たちのやるべきことは――」
「犯人を探すこと」
ライネルが言う。
「その通り」
マリーベルが頷く。
「だけど……依頼者が望むのは『犯人の特定』と『復讐の実行』。
それを“代行”するつもりはないわよ」
「じゃあ、私たちが“代行”するのは?」
アリアが問う。
「――この街の境界を守ること」
マリーベルが言った。
「境界……?」
アリアが首を傾げる。
「生と死、罪と正義、人と魔……全部の境界線よ。
今、この街は“雨”のせいで境界が緩んでる。人間の心までぼやけている」
「ヴァルドさんみたいに?」
「そう。彼は復讐の名を借りて、自分の境界を捨てようとしてる。
だから、私たちは“彼の復讐”ではなく、“この街を守る依頼”を代行するのよ」
「つまり、犯人を捕らえる……?」
「ええ。でも、その過程で、ヴァルドの影も断たなきゃならない」
「……くそ、やることが増えたな」
ライネルがため息をつきながらも立ち上がった。
シルヴィアが笑う。
「こういう時こそ、私たちの出番よ。
《狂言回し》ってのは、物語が動く時に走るものなんだからね」
アリアは拳を握った。
「はい……! 私は、誰も“影”に飲まれさせたくない。
ヴァルドさんも、街の人も、犯人も……誰も!」
「犯人は飲まれてていいと思うんだけど」
シルヴィアがぼそりと言い、マリーベルが軽く肘で突いた。
「冗談はほどほどにして。
――雨がやむ前に始めましょ。嫌な感情が街を覆う前に」
ライネルが剣を背にかけ、静かに言った。
「行こう。
すべての境界が失われる前に――」
四葉亭の扉を開くと、外では依然として不吉な雨が降り続いていた。
まるで空そのものが泣いているかのように、絶え間なく、重く。
だが、その雨がこれからもたらす“本当の意味”を、まだ誰も知らなかった。




