第0310話 すべての境界が失われる夜へ向けて
◆1 不吉な“雨”が落ち始める夜に
黄昏はとうに沈み、街路にかかる石畳は薄い靄に濡れていた。空はどこか重く、風がひゅうと鳴るたび、夜の端にひそむ禍の気配が増すようだった。
四人の旅人――土属性の騎士ライネル、風属性の女盗賊シルヴィア、火属性の女魔法使いマリーベル、水属性の女僧侶アリア――が「四葉亭」の扉をくぐったのは、そんな陰鬱な夜の始まりだった。
店内では、大鍋で煮込んだ野菜の香りと、木の椅子の擦れる音が混じり、いつもと変わらぬ温かな空気が流れているはずだった。だが、今夜ばかりは客たちのささやき声が落ち着かず、どこか緊張している。
理由はただひとつ。
――また死体が見つかったのだ。
四葉亭の主人アシュレイは、奥のカウンターで腕を組み、深い溜息をついていた。短い銀の髪は雨気を帯びていて、普段は柔らかく笑う穏やかな目が、今夜はどこか沈んでいた。
「また嫌な知らせが入ったのね、アシュレイ」
マリーベルが炎の揺らめきを映したような瞳で問いかける。アシュレイは重く頷いた。
「ええ。今度の死体は……ちょっと、ただの殺しじゃあないのよ」
「ただの、じゃない?」
シルヴィアが椅子の背に足をかけ、身を乗り出す。
アシュレイは言い淀み、それから声を潜めた。
「……死体から、“肝”が抜かれていたそうよ」
四人の背筋に、ひやりとした冷気が走った。
否、冷たいだけではなかった。その奥に、熱いものが同居する、奇妙な感覚。
――熱い息と冷たい息。
それは、この街に古くから伝わる忌まわしい伝承だ。
「まさか、《胎児狩り》……」
アリアが、青ざめた顔で口にした。
胎児を必要とする古い呪術師の伝説。“生き肝”よりも、生まれ出ぬ“命そのもの”を欲する魔術。
それを行う者は、熱と冷気を同時に纏い、夜を歩いたという。
「……デマであってほしいところだな」
ライネルが低い声で言った。
だが、この街ではすでに五つの死体が見つかっている。臓腑を荒らしたような殺しが二件。次第に部位が整然と抜かれた死体が三件。
今夜はさらに“正確”な仕業と聞く。
――何かが進行している。
◆2 失われた者たちの遺影が語るもの
四葉亭の奥、依頼人の部屋に案内されたのは、不吉な雨が窓を叩き続けている頃だった。
依頼人――中年の商家の男・ヴァルドは、机に置かれたランプの灯りを頼りに、一枚の古びた紙を握りしめていた。
その紙は、かつての家族写真だった。
妻と娘、そして彼自身。
よく晴れた日に撮られた、幸せそうな三人の姿。
だが、その妻と娘は、数ヶ月前に惨殺された。
胸と胴を切り裂かれ、臓腑を抜かれた無残な姿で発見されたのだ。
「……犯人は、わからない。あの子たちが何をされたのか、なぜ殺されたのか……全部、闇の中だ」
ヴァルドの声は低く、震えていた。
アリアがそっと手を伸ばす。
「……お気の毒に。神の加護が――」
「いらん!」
雷鳴のように叫んで、ヴァルドはアリアの言葉を遮った。
その目には、狂気に近い憎悪が宿っていた。
「神が助けるか! 誰も助けてくれやしない! だから私は――自分で復讐する!」
四人が黙る。
ヴァルドは続けた。
「だが、犯人は見つからん。足跡も、目撃者も、証言も……すべてが“煙”になって消えていくようだ。
ならば――私はあの手口と似た犯行をする奴らを、片っ端から殺すしかない!」
ぞくりと血が凍った。
この男はもう境界線を超えている。
悪を討つのではなく、悪らしき者を見つけて潰す。
罪と正義の境界が溶け、混ざり、曖昧になった地帯――そこに、今にも足を踏み入れようとしていた。
「……で、お前たちに頼みたいことがある」
ヴァルドは、拳を震えながら言った。
「この街で、人を“部品”のように扱っている奴を……見つけてくれ。
そして、私に教えろ。私は――奴を殺す」
四人は息を呑んだ。
依頼というより、これは宣言だった。
自分はもう引き返さない、と。
「……あなたが復讐を遂げたとして」
ライネルが静かに問う。
「そのあと、何が残る?」
「そんなものはどうでもいい!」
ヴァルドは叫ぶ。
「残るのは……“私が私でなくなる前に、やるべきことをやった”という事実だ!」
◆3 狂言回し四人の視点が交錯する――境界線の輪郭
部屋を出た後、四人は店の裏手にある厩舎で話し合った。雨が屋根を叩く音が、沈黙の合間に重く落ちてくる。
「なあ……あの男、本当に正気か?」
シルヴィアが肩をすくめる。
「正気じゃなければ、なおさら放ってはおけないわ」
マリーベルが言う。
「私……怖かった」
アリアは指を握りしめ、俯いた。
「彼の目……深い湖の底みたいだった。暗くて冷たくて……でも、どこか燃えているの」
「熱い息と冷たい息……か」
ライネルは、忌々しそうに顎をなでる。
「伝承の怪物と同じだな。あの男の心の中は、すでに“夜”が歩き始めている」
「……けど、犯人を探るには情報がいる」
シルヴィアは瞳を細めた。
「死体が五つ。手口が進化してきてる。魔術か、儀式系の犯行かもしれない。それに、今回抜かれた肝……あれは胎児の代替として使われる特殊な術の準備よ」
「つまり、犯人はどんどん“目的の中心”に近づこうとしてるのね」
マリーベルは腕を組む。
「胎児そのものを必要とする魔術……そんなの、失われた禁術書の類いか、闇魔術師の仕業よ」
四人の間に漂うのは、“嫌な予感”というには余りにも濃い影だった。
――これは、ただの殺人事件ではない。
――そして、犯人はすでに目的を半ば遂げている。
◆4 敵対者の影――《暗殺者》の噂
雨が少し弱まった頃、シルヴィアが街の情報屋から戻ってきた。
「みんな、聞いてほしいことがある」
彼女の表情は、ふざけた調子を一切含んでいなかった。
その時点で、情報の重さは明らかだった。
「今回の事件の裏には……“暗殺者”が関わってるかもしれない」
「暗殺?」
ライネルが眉をひそめる。
「そう。《暗殺業》を本職にする影の家系が、この街の裏社会に入り込んでるらしい。標的の臓器を狩る……いや、臓器に呪いを“移す”儀式を行う一族」
「それは……復讐や快楽じゃなく、“目的”で殺しているということ?」
アリアが震える声で尋ねる。
「ええ。そして、その目的が――胎児を素材にする儀式なら……」
マリーベルが静かに言葉を継ぐ。
「この街には、近く“大きな雨”が降る」
アリアが息を呑む。
「……不吉な雨」
「そう」
マリーベルは頷いた。
「雨が降る時、それは《境界》が薄くなる。魂と肉体、罪と赦し、生と死……すべてが曖昧になる。その夜に儀式を完成させれば、“門”が開く」
ライネルは剣の柄を握った。
「奴らはその“門”を開くために、必要な材料を集めているのか」
◆5 そして夜が“事件”になる
その夜、六つ目の死体が発見された。
死体は、街外れの古いアーチ門の下に座らされるように置かれていた。
胸部が整然と切り開かれ、肝が抜かれた跡。
皮膚は冷たく、しかしその首元からは、湯気のように“熱”が立ち上る。
――熱い息と冷たい息。
そして、その傍らには黒い短剣が突き立てられていた。
刃には古い文字が刻まれている。
「これ……暗殺者の“署名”よ」
シルヴィアの声が震えた。
「つまり――犯人は、挑んできている」
ライネルが剣を抜いた。
雨が、ぽつり、ぽつりと落ち始める。
その雨は確かに“不吉な雨”だった。
そして、四葉亭の四人は悟る。
――あの依頼者の復讐は、まだ序章にすぎない。
――この街に“嫌な感情”が満ちる本当の事件は、今ここから始まるのだ。
すべての境界が失われる夜へ向けて。




