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第0309話 雨は、すべてを溶かし始めていた

――雨はいつも、誰かの感情を連れてくる。


 その夜、街を包んでいたのは、春の終わりにしては異様に冷たい雨だった。

 石畳を叩く雨粒は、まるでひとつひとつが意思を持ち、街の住人の背筋に触れてくるような寒々しさを漂わせている。


 雨の中、ひとつの酒場にだけ、灯りがぼんやりと揺れていた。

 街外れにある、古びた木造の建物――酒場・四葉亭。


 その扉が、暴風に押されるように激しく開いた。


 中にいた者たちの視線が、一斉に入口へ向く。


 濡れた外套を肩から滴らせ、重い足取りで入り込んできた男。

 背は高い。全体に無駄のない筋肉を持っているが、その背中には疲れ、焦り、そして――深い闇がへばりついていた。


 酒場の奥で酒瓶を拭いていた店主、アシュレイがふと顔を上げる。

 その横で、冒険者でもある客たちが目線を交わす。


「おや、ずいぶん辛気くさいオーラをぶら下げて来たな」


 カウンターに座っていたのは、風属性の女盗賊――シルヴィア。

 栗色の短髪が揺れ、いたずらっぽい表情が消えていく。

 軽口を叩く彼女ですら、この男が持ち込む“何か”に気圧されていた。


「……依頼を、頼みたい」


 男の声は低く、湿った空気に吸い込まれるように沈んだ。


「依頼は紙に書いてから――」


 シルヴィアの言葉を遮るように、男は血に染まった布をカウンターに置いた。


 酒場の空気が、一瞬で凍りついた。


「……妻が、連れ去られた」


「連れ去られた?」


 土属性の騎士 ライネル が立ち上がる。

 暗い瞳がじっと男を見つめる。

 ライネルは普段感情を表に出さないが、今は明らかに警戒していた。


 男の手は震えている。

 恐怖からではない。怒りでもない。

 何かもっと、歪んだもの――“痛み”に似た感情。


「妻レーテは……“胎児そのもの”を狙われて、攫われた」


 その言葉が四葉亭の空気を根こそぎ変えた。


 火属性の魔法使い マリーベル が息を呑む。


「……生き肝の術式じゃない。もっと原始的で……もっと邪悪なやつ」


 雨が強くなる。

 雷鳴が遠くで鳴り、酒場の窓ガラスを震わせた。


「最近……街で噂されている禁忌術式を知っているか」


 男が絞り出すように言った。


「“胎児”をそのまま用いる術だ。

 術者の願いを“形”に変えるための……究極の生贄」


 アリアが震える声で祈りの言葉を口にした。

 水属性の僧侶である彼女は、生命にまつわるものには誰より敏感だ。


「どうか……その話が嘘でありますように……」


 シルヴィアは深呼吸しながら男を見た。


「名前は?」


「……名乗る必要があるか?」


 その瞬間、酒場の中にいた全員が、違和感に気づいた。


 ――この男、何かを隠している。


 アシュレイが冷静に杯を置いた。


「隠し事をする依頼人ほど、ややこしい事件になるってのは、俺の経験則だ」


 男は続けた。


「レーテの家の前に、“熱い息と冷たい息”が残っていた。

 誰かが、私たち夫妻を監視していた……」


 アリアが震えるように言った。


「それ……生者と死者の気配が混ざった時にだけ現れる痕跡……」


 嵐が強まる。

 酒場の灯火が揺れ、外では雨が狂ったように地面を叩いていた。


「頼む……妻を助けてくれ。

 もし間に合わなければ……せめて、犯人を見つけてくれ」


 シルヴィアは小さく息を吸った。


「いいわ。私たち四人で引き受ける」


 ライネル、マリーベル、アリアが静かに頷く。


 アシュレイがため息をついた。


「雨が降る夜は、ロクな依頼が来ねぇんだ」


 その言葉が不吉に響いた瞬間、

外の雷が轟き、四葉亭の灯りが一瞬、まるで消えかけるように沈んだ。


 その夜――

“境界”が揺らぎ始めた。


 正義と罪のあいだ。

 生者と死者のあいだ。

 復讐と狂気のあいだ。


 雨は、すべてを溶かし始めていた。

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