第0305話 足跡、合図、アリバイ
薄曇りの朝、四葉亭の看板を叩く風は冷たく、前夜の雨が石畳に残した水滴を震わせていた。開店前の薄い薄闇の中、土属性の騎士ライネルは、ほこりを巻き上げる風の音に目を覚ました。酒場の奥で眠っていた仲間たち――シルヴィア、マリーベル、アリア――もまた、眠気を瞼に残したまま順に起き上がってくる。
昨夜、教会の裏庭で発見した“逆さ向きの足跡”。
あれが思わせぶりに残されていたのは、まるで「密会の証拠」を仕立てるかのようだった。
しかし四人は、その“気味の悪い暗示”に釈然としない何かを抱えていた。
――本当に、あれは密会の足跡なのか?
誰かを陥れるための作り物ではないのか?
疑念は、夜の闇よりも濃い影を胸に落としていた。
その影を断ち切るように、四葉亭の扉が音を立てて開いた。
現れたのは、若い男だった。黒髪は切り揃えられ、服は質素だがよく手入れされている。だがそれ以上に印象的だったのは、その顔に張りついたような“気まずさ”の色である。
依頼者――エレナの夫の弟、ルシアン。
昨日、教会裏で密会を疑わせる足跡が見つかった当事者の一人だ。
ライネルは椅子を引き、静かな声で促した。
「何の用件で?」
ルシアンは息を呑んだ。躊躇いに濡れた瞳の奥が、かすかに震えている。
「……俺を疑わないでください、という依頼です」
三人の視線が揃ってルシアンに注がれる。
シルヴィアの表情は軽い笑みに隠れた警戒を含ませ、マリーベルは火のような眼差しで見下ろし、アリアは胸の前で手を組み、彼の動揺を汲み取るように静かに見守っていた。
ライネルが問う。
「昨夜の足跡は、あなたのものではないのですね?」
「違います。あれは……誰かが“俺を陥れるために”つけたものです。俺は、兄嫁のエレナさんと一緒にいたことなんてありません」
その言葉には必死の響きがあった。
けれど、彼の必死さがそのまま“真実”を保証するわけではない。
シルヴィアが腕を組み、軽い声で尋ねる。
「へぇ、なら誰が得するの? あなたが疑われると、誰かが助かるわけ?」
その瞬間、ルシアンの表情にひどく複雑な感情が混じった。
しかし彼は言葉を濁す。
「……それは、まだ言えません。言うことで、兄嫁を巻き込んでしまうかもしれないから」
アリアがやわらかく問いかける。
「では、あなたが私たちに依頼したいのは、“自分の潔白の証明”なのですね?」
「はい……。俺は嘘をついていません。だけど、自分では証明できない。だから……探偵ドルグではなく、あなたたちに依頼したんです」
その名が出た瞬間、四人の空気が微かに硬直した。
対抗者―探偵ドルグ。
四葉亭に新しく店を構えた、寡黙で冷徹な探偵。
証拠を重んじ、噂も情も切り捨てる“冷たい正しさ”を持つ男。
彼がすでに“密会事件”を調べ始めているのだとしたら――
ルシアンがこの店に来た理由は明白だった。
「ドルグさんは……俺を“黒”だと言いかけているんです。
だから、あなたたちが先に“真実”を掘り当ててほしい」
マリーベルが指先をかすかに震わせ、声に少し怒気を込める。
「火の属性の魔法使いとして言わせて。
真実は、誰かの都合で捻じ曲げられてはいけないの。
本当にあなたが潔白なら、私たちはその証を探す。
だけど嘘だったら、燃えるわよ」
ルシアンは全身を固くしながらも、うなずいた。
「……それでも構いません。嘘ではないから」
ライネルは静かに立ち上がる。
その足元には、昨夜の冷たい疑念がまだ影のように残っていたが、その影に剣を向ける覚悟は決まっていた。
「依頼は承ります。ただし、条件があります」
「……条件?」
「あなたにも、真実を語ってもらう。
誰が“あなたの罪”を望んでいるのか。
その名前を明かす覚悟ができたら、必ず言ってもらう」
ルシアンは苦しそうに息を吐いた。
その沈黙は一秒ごとに重さを増していく。
やがて、かすれた声が漏れた。
「……わかりました。ですが、今はまだ……」
シルヴィアが軽く言う。
「じゃあ“今はまだ言えない”ってことね。
いつかは言うのよ? 隠し事は風に透けるの」
アリアが補う。
「嘘もまた、水のように形を保てません。きっと流れ出てしまいます」
四人はルシアンを連れて四葉亭を出た。
その瞼の奥には、昨夜の足跡がまた思い出される。
――逆向きの足跡。
あんな不自然な痕跡を残せる人間は誰か。
ライネルの脳裏に浮かんだのは、
靴の匠が口にした奇妙な噂だった。
「靴のために足を切る男の伝説」
――援助者の象徴として語られる、あの寓話。
不自然な足跡を作るには、
“不自然な靴”を履くか、
“足そのもの”が別人である必要がある。
その寓話は、
“靴だけが歩き回る”不気味な魔法の話でもあった。
◆教会へ向かう道で
石畳に朝の光が射し込み、四人の影が揺れる。
マリーベルが不意に口を開いた。
「ねぇ、あの足跡なんだけど……。
本当に“誰かが歩いた跡”だと思う?」
シルヴィアが小首を傾げる。
「歩いてない人の足跡なんてある?」
「あるわよ。魔法を使えばね。
火の魔法だけじゃない。影を逆さに刻む術もある」
アリアが顔を曇らせた。
「でも……そんな術は悪魔の子供しか知らないと、教典にあります」
悪魔の子供――
“敵対者”に名を連ねる不吉な存在。
ライネルの胸にざらついた疑念が広がる。
――悪魔の子供が介入しているのか?
――それとも、誰かがその“悪魔”を装っているのか?
どちらにせよ、
“誤解の記号”は自然に生じたものではない。
誰かの意図が、そこにある。
◆聖堂前にて
教会の前に差しかかったとき、
扉にもたれかかっている男の姿が目に入った。
黒いコートをまとい、朝露に濡れた石像のように動かない。
対抗者――探偵ドルグ。
彼は四人を見ると、微かに片眉を上げた。
「また君たちか。昨夜、教会裏で私の調査を覗いていたな」
マリーベルが一歩前へ出る。
「証拠を見に来ただけよ。あなたの邪魔をした覚えはないわ」
「邪魔をするつもりがなくても、事実として邪魔になる場合がある」
その冷たい言葉の刃に、シルヴィアが肩をすくめる。
「相変わらず堅いわね、ドルグ。石像みたい」
「褒め言葉と受け取っておく」
ドルグは視線をルシアンに向けた。
「弟君。私に何も言わず、別の探偵に依頼とは……“後ろ暗いものがある”という証拠だ」
その言い方にアリアが憤りを含んだ声で返す。
「後ろ暗いからではなく、あなたが疑いを決めつけるから……彼は怖かったのです」
ドルグは表情ひとつ変えず、四人を順に見つめる。
「ならば証明してみせろ。
――“潔白という、存在しないもの”を」
挑発のようなその言葉に、ライネルの瞳に土の色の決意が宿った。
「……証明しましょう。
嘘か、真か。あなたより先に真実へ届いてみせる」
ドルグは陽光の中へ踏み出しながら、静かに告げる。
「期待せず待っている」
その背中は、まるで“影すら置いていかぬ”ように淡い。
◆第二章・終わりに向けて
四人とルシアンは聖堂へ足を踏み入れる。
昨日、裏庭にあったはずの“逆向きの足跡”はすでに消され、
その代わりに、奇妙な“合図”のような印が扉の内側に刻まれていた。
――“逆・客をもてなす合図”。
もてなしの象徴であるはずの印が、逆に彫り込まれている。
アリアが震える声でつぶやく。
「これは……“歓迎しない客を呼ぶ”印……」
シルヴィアが吹き出した息を細めて言う。
「歓迎しない客? つまり、誰かを“呼びつける”ためのものってこと?」
マリーベルが険しい顔になる。
「誰を呼ぶつもりで、逆にしたのよ……」
ライネルはその印を見つめながら、静かに答える。
「――“誤解”。
この物語のどこかに、意図的な誤解を引き起こす者がいる。
その者を暴くのが、この章で得た依頼だ」
足跡、合図、アリバイ。
すべてが“誰かの仕掛けた記号”として積み重なりはじめる。




