第0303話 “退屈の逆向き”のほうが、アタシは好きだしね
王都の南に位置する商人通りは、昼夜を問わず人の流れが絶えない。香草商が並ぶ通りはいつも湿った土とハーブの香りが混じり合い、陽の高い時間には市場の叫びが空を震わせる。だが夕刻が近づくにつれ、喧騒はゆっくりと沈みはじめ、かわりに酒場へ吸い寄せられるように人が流れていく。
その中心に、古びてはいるがどこか懐の広い灯火を持った酒場――四葉亭がある。
粗削りの木の扉には四つ葉の刻印。幸運を呼ぶ印だと街では言われているが、常連たちは「幸運なんてよりも、妙な依頼のほうがよく舞い込む酒場だ」と笑う。
その四葉亭の奥の一角、暖炉のそばの丸テーブルに、四人の影が集まっていた。
土属性の騎士ライネルは、黙ったまま鋼の籠手を外し、磨きはじめている。彼の表情はいつも陰に沈んで見え、暗い瞳は深い土壌のように物静かだ。
隣では、風属性の女盗賊シルヴィアが背もたれにゆるく体を預け、湯気の立つポタージュを片手で揺らしている。「退屈だねぇ。今日は何の依頼もないの?」と、彼女は軽い調子で鼻歌を混ぜた。
火属性の女魔法使いマリーベルは、赤毛をひとつに括りながら眉間にしわを寄せて本を読んでいる。「静かにしなさいよ、シルヴィア。魔術式がずれる。」
水属性の女僧侶アリアだけは、窓辺から外を眺めながら、誰かを待っているように落ち着かない。彼女の内側にはつねに“寂しさ”があり、それは時おりのぞく眼差しの揺れに表れた。
四葉亭の店主ゴードンは、彼らをちらりと見て肩をすくめた。「……静かな時間は静かなうちに楽しむんだな。どうせじきに、また妙なやつが転がり込むさ。」
その言葉を聞きつけたかのように、店の扉が勢いよく開いた。
冷えた風と、ひとりの女が転がり込んだ。
たっぷりとした緋色の外套。乱れた息。肩を震わせ、まだ若い顔には深い不安の色が塗られている。
アリアが真っ先に駆け寄り、腕を支えた。
「エレナ……どうされたの?」
入ってきた女性の名はエレナ。この店の客であり、四人の依頼人となる人物だ。
エレナは、王都でも名の知れた商家フェスラー家の嫁であり、夫とその弟と共に暮らしている。
震える声で、彼女は言った。
「……ルカが、夫の弟が、誰かと密会していたかもしれないの。」
その言葉だけなら、ただの夫婦の揉め事か、若者のよくある色恋沙汰だろう。しかし彼女の次の言葉は、四人の胸に冷たい影を落とした。
「庭に、逆向きの足跡が残っていたの。
屋敷から出て行ったんじゃない……。
外から“誰か”が入り込んだ足跡だったのよ。」
静かに、ライネルの手が止まる。
シルヴィアは興味深そうに片眉を上げ、
マリーベルの目にわずかな怒気が走る。
アリアはその手をさらに強く握った。
「逆向き……?」
エレナの呼吸は荒いままだった。
「それに……合図のようなものもあったの。
玄関のそばに、飾った覚えのない花束が置いてあって……
“客をもてなすための合図”だって、昔は言われていた種類の花よ。」
ライネルが低くつぶやく。
「誤解を生む記号ばかりだな。」
エレナはうつむき、さらに声を絞り出す。
「まだあるの……。
ルカには“真のアリバイ”があるはずなの。
でも、彼がその証拠を示そうとした途端、
周りの証言が次々に食い違いはじめたの。
まるで誰かが、アリバイを壊そうとしているみたいに……」
その瞬間、四葉亭の空気が微かに揺らいだ。
それは暖炉の火ではない。
“嫌な感情”が部屋の中心に立ち上る音だった。
アリアがそっと彼女の肩に手を置く。
「落ち着いて、エレナ。……まず、水を。」
シルヴィアが「どうやら退屈は終わったみたいね」と言って立ち上がる。
マリーベルも本を閉じ、深いため息をついた。
「あなたの話を整理しましょう。」
「逆向きの足跡。」
「正体不明の花束。」
「崩されるアリバイ。」
「そして……密会の疑い。」
エレナは震える手を胸に当て、頷いた。
「私、ルカを信じたいの。
でも、嫌なものばかり見せつけられたら……
心のどこかに、どうしても……。」
アリアは優しく言った。
「疑う自分を、責めてはいけません。
あなたは何も悪くありません。」
だが、その言葉の裏で、常連客の小声が囁く。
「おい、知ってるか……最近“悪魔の子供”がこの辺りに出るらしいぞ。」
「家族の間に足跡を残し、疑念を生むって噂の……」
「つまり、誰が犯人かじゃなく、誰を疑わせたいかってやつだ。」
エレナはその会話に小さく反応し、顔を青ざめさせた。
ライネルが立ち上がり、静かに告げる。
「エレナ。
俺たちが君の屋敷へ行き、すべて確かめる。
“嫌な感情”の正体を暴こう。」
マリーベルが短く頷く。
「誤解された印……足跡、合図、アリバイ。
それらが示すものをひとつずつ解いていけば、
真実は逃げられないわ。」
シルヴィアは外套を翻し、明るく言った。
「じゃ、調査といきますか。
“退屈の逆向き”のほうが、アタシは好きだしね。」
アリアだけが、窓の向こうを見つめていた。
王都の遠い影。
誰かがこちらを見ているような気配。
――悪魔の子供が、本当にいるのだろうか?
しかし、アリアはその不吉な考えを胸にしまい、
エレナに微笑んだ。
「さあ、行きましょう。
あなたの心を曇らせている影を、取り除きに。」
四人は揃って立ち上がり、冷えた夕空へ踏み出した。
その夜、王都の上空には
“ひとつの影”がじっと彼らを見おろしていた。




