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第0302話 生きる者の音だった

灰色の森を抜けたとき、空はすでに夜明けの色に染まっていた。

淡い金と青の中間にある光が、葉に溶け、土を照らし、世界を静かに蘇らせる。


アリアは最初に立ち止まり、そっと振り返った。


もうあの裂け目はない。

叫びも誘惑も、契約の声もない。


ただそこには、普通の森があるだけだった。


「……終わったんですね」


その言葉に、ライネルは短く頷く。


「終わった。しかし“救い”は何も残さなかった。ただ――」


彼は森を見渡し、続けた。


「――選ばなかった選択肢だけが、静かに消えた」


シルヴィアが深く息を吐き、肩を回す。


「上等じゃない。簡単に救われる方が気持ち悪いわ」


マリーベルは炎を指先に灯しながら、不機嫌そうに呟く。


「結局さ、救いなんて、誰かに与えてもらうもんじゃないのよ。

自分で勝手に作るか、諦めて飲み込むか――どっちかだわ」


アリアは笑った。涙に濡れた笑みだったが、弱さではなく、理解の証だった。


「……そうですね。

神の教えの中にも、答えのない祈りは多いんです。

だけど、それでも祈るのは――」


彼女は胸に手を置き、そっと言葉を続けた。


「“生きたい”からなんです。

救われたいより、生きたい。

痛みがあっても、失っても、願っても裏切られても――」


小さな声だったが、4人の間に静かに落ち、揺らがず残った。


 


***


 


四人が酒場**《四葉亭》**へ戻ったのは、それからさらに半日歩いた後だった。


木製の扉を開けると、店主がカウンター越しに眉を上げる。


「帰ったか。……顔色が、死人みたいだな」


「そりゃあ、死人と話してきたからねぇ」

シルヴィアがニヤリと笑う。


店主は肩をすくめて言う。


「依頼人はもう来てる。奥の席だ」


奥の席には――

石化した女の家から見つかった肖像画の女にそっくりな女が座っていた。


だが、生きていた。


肌は血の通った色をし、目には恐怖ではなく、言葉を探しているような迷いが浮かんでいる。


アリアが先に口を開いた。


「……あなたは、契約をしてしまったのですね」


女は唇を噛み、しばらく沈黙した後、震える声で言った。


「助けられると思ったの。

死んだ夫と、もう一度会えるなら……魂を差し出してもいいと……」


「だが、会えなかった」

ライネルの声には責めも同情もなかった。


女は涙を落とした。


「ええ……

あそこには夫はいなかった。

“夫の声を装った何か”だけが、私を引きずり込もうとした」


沈黙。

四人はその言葉をどうにもできなかった。


しかし――シルヴィアが乾いた笑みを浮かべた。


「まあ、生きて戻れたんだから運は良かったね。

普通は戻れないし、戻ってきても石のまま」


女は震える手で袋を差し出した。


「……報酬です」


ライネルは受け取らず、


「報酬はまた依頼を出す形で返せ」と言った。


店主が目を丸くする。


「珍しいな。おまえが対価を断るなんざ」


ライネルは短く答える。


「救済を売る商売はしていない」


沈黙――しかしどこか清らかな気配が漂った。


アリアが微笑む。


「……救われなかったけれど、あなたはまだ生きています。

だから――“これから救われること”は否定されていません」


その瞬間、女は泣き崩れた。

それは絶望の涙ではなく、痛みと現実を受け入れた者の涙だった。


まるで、

「救済の代わりに、生きることを選ぶ儀式」のように。


 


***


 


その夜、四人はテーブルを囲み、酒と薄い笑いを交わした。


シルヴィアが杯を掲げ、


「生きて帰れた仕事に、乾杯!」


マリーベルが続けた。


「救われない者に捧ぐ、現実の乾杯!」


アリアも小さく笑って言った。


「迷い、苦しみ、祈り、立ち上がる人間に……祝福を」


最後にライネルが杯を上げ、短く言った。


 


「――救いを欲しすぎない者へ」


 


杯が触れ合う音が、静かに鳴った。


その音は――偽りの天国でも、甘い誘惑の地獄でもなく。


ただ、

生きる者の音だった。


 

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