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第0297話 妻は、誰に救いを求めた?

夜のはじまりには、必ずひやりとした沈黙がある。

その沈黙は、かすかな期待と、形にならぬ不吉さを孕んだ呼吸のようで、

焔に照らされた石畳の路地を、ゆっくりと満たしていく。


この夜も例外ではなかった。


空には月が薄く、雲の裏側に吸い込まれそうに消えていた。

風は冷たい。冬でもないのに、骨の芯に触れる冷たさだった。

人々は口を閉ざし、歩く足音だけが町に響く。


死者が穴を通って、別の世界へ行く――。

そんな古い伝承が、この町には残っている。


伝承は昔話として語られ、人々は信じるでも否定するでもなく、

ただ「そういうものだった」と片付けてきた。

だが――今、その伝承が現実と重なり始めている。


◆◇◆


酒場「四葉亭」の扉が、重苦しい音を立てて開いた。


店内は暖かく、獣脂と焼き肉と古酒の匂いが入り混じっている。

天井の梁には吊るされたハーブが乾燥し、客の声とグラスの音が雑然と響く。

旅人と盗賊と民兵と、何かを失くした人間が、区別なく混ざる場所。


ここは噂が酒に混ざる場所であり、

秘密が値段を持つ場所であり、

行き先を失った魂が座る場所でもある。


四人の影が扉をくぐった。


最初に入ったのは、黒いマントを羽織った男――土属性の騎士、ライネルだ。

無口で、背筋だけは軍人の習慣を捨てない。

彼の足取りは、地面に沈むように重たい。


続いて、軽やかな足取りで入る女――シルヴィア。

腰には短剣、瞳には軽薄な光、歩き方は猫のようで、

笑う前から「面倒ごとは楽しもう」という気配を纏う。


三人目は、火の赤を思わせる髪を持つ女魔法使い――マリーベル。

高価な杖を肩に担ぎ、眉間には常に小さな不満。

何かあれば爆破すればよいと考える性質の女だ。


最後に入ったのは、静かに歩く薄青のローブの僧侶――アリア。

彼女の瞳は深く、湛えた水面のようで、

その奥には冷たい静寂と、耐え難い寂しさがあった。


四人が席につくと、店主バルドが近づいてきた。

熊のような体の男だが、動きは静かで慎重。


「来たか。……今夜は、相談がある」


ライネルは眉一つ動かさず、低く答えた。


「依頼か」


「あぁ。だが――正直、俺は関わりたくねぇ」


その言葉には、酒より重い気配があった。

シルヴィアが笑う。


「関わりたくない依頼ってのは、高くなるんだろ?

なら――依頼内容を聞く前に、酒でも奢ってくれよ。な?」


バルドは苦く笑い、だがすぐ真顔に戻った。


「……“石になった女”の話だ」


その瞬間、酒場の空気がわずかに凍りついた。

笑っていた客が黙り、視線が揃う。


アリアの指が、小さく震えた。

彼女は祈りを捧げるように目を閉じ、低く呟く。


「――あの噂、本当だったのね」


ライネルは視線を上げる。


「死んだわけではないのだろう?」


「いや。死んでいない。息はないが、死ではない。

……だが、生きてもいない」


バルドの声には震えがあった。


「石像みたいに固まって、肌も表情もそのまま。

ただ――目だけが、涙を流していたらしい」


沈黙が落ちた。

酒場のざわめきが、遠くの嵐の音のように薄れていく。


シルヴィアが腕を組み、口笛を短く鳴らす。


「……趣味の悪い呪いか、あるいは契約魔術か」


マリーベルはテーブルを指で叩く。


「石化は上級呪術。

普通の魔法使いにはできない。

ましてや魂と涙を残すなど――天上か冥界の術式だ」


ライネルが口を開く。


「依頼者は?」


バルドは視線を扉へ向ける。


「……来てる」


扉近く、外気を吸うように立つ男がいた。

痩せこけ、目の下には隈。

衣服は泥と灰の匂いを纏い、まるで世界から引き剥がされたような表情。


男はゆっくり近づき、掠れた声を絞り出した。


「お願いだ……助けてくれ。

妻を……あの石の檻から、戻してくれ」


アリアが静かに問う。


「奥方は……救いを求めたのですか?」


男は苦しげに息を呑み、震えながら答えた。


「――あぁ。

救いを……望んでしまったんだ」


◆◇◆


四人は互いの顔を見、

言葉にできない予感を察した。


嫌な感情――

不気味さとも、悲しみとも、嫌悪とも違う、

胸の奥に黒く沈む重み。


ライネルが静かに言う。


「……いいだろう。

だが一つ、先に聞いておく」


男は怯えた目で彼を見る。


「――妻は、誰に救いを求めた?」


男の唇が震え、声にならない声が漏れる。


そして――絞り出すように答えた。


「……“悪魔”だ」

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