第0294話 “見てしまった”という事実が、彼らを呪縛する
酒場「四葉亭」の裏路地は、夜になると途端に冷気を含み、どこからか湿った土の匂いが漂ってくる。
シルヴィアはその匂いに眉をしかめながら、壁にもたれかかるライネルを横目にした。
「ねえ土の人、あんた、この件――気味悪くないの?」
ライネルは返事をせず、ただ沈んだ目で石畳を見つめた。
泡から陸地ができるという“現象”が起こった瞬間から、彼の様子はどこかおかしい。
言葉少なになり、必要以上に慎重になり、そして――怯えている。
マリーベルが腕を組んだ。
「気味悪くて当たり前でしょう。石像が女の姿に変わるよりも不可解よ。敵対者は“逆・石が女に化ける”……つまり石像の擬態、あるいは実体化そのものが反転してる」
アリアは震える声で問う。
「じゃあ……私たちが追っている“白髪の女”は……本物じゃない、かもしれない?」
その可能性を否定できる者はいなかった。
白髪の女――彼女こそ、ギルバートが「偽りの妻」と呼んだ存在。
息を吐いて邪神を生む男の側に、唐突に現れ、唐突に消える。
彼女は人間ではない。だが何なのかもわからない。
四葉亭に戻ると、依頼者ギルバートは既に席で待っていた。
だが表情は憔悴しきっており、濁った目に生気がなかった。
「……見てしまったんだ」
彼の声は震え、喉の奥から絞り出すようだった。
「妻の姿をした“何か”が、泡の大地の上で……何人もの女を飲み込んでいくのを……!」
アリアが口元を押さえた。
マリーベルは一歩前に出た。
「女を……飲み込む?」
「泡が――ひと呼吸するたびに、女の形になり、溶けていって……また次の女が生まれるんだ。
あれは……妻なんかじゃない。俺の記憶を模した“形”なんだ……!」
言葉は震えていたが、その証言は疑いようのないものだった。
そこへ、四葉亭のカウンター越しに、店主アシュレイが低い声で言った。
「――“正体を見るな”。」
四人は振り向いた。
「昔からある禁忌だよ。妖異が姿を取るとき、本性を見極めようと目を凝らすと……向こうからも見返される。
そして気づいたときには、もう逃れられなくなる」
その言葉は、酒場に重い影を落とした。
外に出ると空気は不穏に震えていた。
ライネルが突然、地面に膝をついた。
「……まただ」
泡が、地面を破り陸地を押し上げるように盛り上がる。
ごぼり、と音を立て、白い塊が地表に浮かび上がる。
アリアが叫ぶ。
「誰かが――誰かが中で動いてる!」
塊が膨張し、裂け、やがて一人の“女”が姿を現す。
顔も髪も服も――すべて泡が固まったような、半透明の存在。
シルヴィアが短剣を抜きながらつぶやく。
「……石が女になる逆、じゃない。泡が女になってるのよ」
マリーベルが火球を構えるが、ライネルが手で制した。
「待て。あれは――敵じゃない」
「どうして言い切れんの?!」
「わからない……ただ、あれから“こっち側”の気配がしない。怯えている……」
泡の女は震え、口を開いた。声は濡れた石が擦れ合うように不安定だった。
『――た……すけて』
アリアが駆け寄ろうとした瞬間、泡の女の影がねじれた。
次の瞬間――
別の女が泡の中から生まれ出てきた。
黒髪、赤い唇、そして冷たい瞳。
ギルバートが叫んだ。
「あれが……妻の姿をした“何か”なんだ!」
泡の女と“黒髪の女”が向き合う。
まるで自分自身の影と向き合うかのように。
ここに、最初の大きな“障害”が現れた。
何が敵で、何が無害で、何がただの模倣なのか――誰も判断できない。
そして、黒髪の女が四人を見た。
その目は、生きた人間を見ているのではなく、何かの材料を選別するような冷たさだった。
『――正体、見た?』
その声は甘く、湿り、耳の奥に入り込んでくる。
アリアが震えた。
「見ちゃ……いけなかったのよ……!」
マリーベルが詠唱を開始し、シルヴィアは素早く背後に回り、ライネルは地を踏みしめる。
だが黒髪の女は、笑みを深めた。
『じゃあ――あなたたちにも、形を与えてあげる』
泡が爆ぜ、地面が盛り上がり、新たな“人影”が生まれようとしていた。
敵は増える。形は読めない。正体は不定。
そして何より――“見てしまった”という事実が、彼らを呪縛する。
ここから先、彼らはただの依頼を解く探偵ではいられない。
自分たち自身が、妖異に“見られている”。
その恐怖が、物語の“嫌な感情”に重くのしかかる。




