第0291話 老人の不吉な予言
昼下がりの四葉亭は、珍しく静かだった。
木製の扉は軋む風に揺れ、室内に差し込む光は、
泡のように瞬いて見えた。
ライネルはその奇妙な光の揺らぎに気づき、
眉をひそめた。
「……また土地が膨れたのかもしれん」
土属性の騎士として、
大地の異常には敏感だった。
ここ数週間、村の外れでは“泡が盛り上がるように”土が膨れ、
そのまま小さな陸がせり上がる現象が続いている。
異様なのは、それが音もなく、
まるでこの世界に新たなページが加えられるように
“静かに現実が増殖している”ことだった。
「ライネル、また怖い顔してるよ」
風属性の盗賊シルヴィアが、
カウンターに腰かけながら言った。
軽薄な声音だが、目は鋭く光っている。
「大地が泡立つのを見るとね。世界が増えてる感じがするんだ。
普通、世界って減ったり欠けたりするもんじゃない?」
「黙れ。お前の軽口で世界の理が歪む気がする」
「怒りっぽいのは火属性のマリーベルの役目でしょ?」
呼ばれたマリーベルは、分厚い魔術書から顔を上げて吐き捨てる。
「わざわざ私に振らなくていい。
でも、確かに土地の泡立ちは普通じゃない。
“異界の呼気”が地表を押し上げるときに似てるわ」
「異界……嫌な言葉だねぇ」
水属性の僧侶アリアが、杯を両手で温めながら呟いた。
彼女は寂しがり屋ゆえに、
異界や変化の話題を怖がる。
そのとき、
酒場の扉が勢いよく開いた。
若い青年が、蒼白な顔で飛び込んできた。
「た、助けてくれ! 俺の婚約者が……レネアが……!」
息を切らし、膝から崩れ落ちそうになりながら続ける。
「“石女”になってしまったんだ……!」
四葉亭の空気が一瞬にして固まった。
石女とは――
石が女に化けて人を惑わす怪異の姿をした伝承だ。
しかし青年の言葉は、さらに奇妙だった。
「逆なんだ……! レネアは……石が女になったんじゃない……
女の姿のまま、“石になりかけていた”んだ……!」
「なんだって?」
シルヴィアが軽薄な笑みを消す。
ライネルの背筋にも冷たいものが走った。
青年は震える声で続ける。
「でも……石じゃない。
触れたら……泡みたいにぷくっと膨らんで……
でも固くて……。
あれは……俺の知ってる彼女じゃない……!」
アリアが胸に手を当て、優しく尋ねた。
「レネアさんはどこで、そんな状態に?」
「村外れの丘だ。
あの……泡の大地ができる場所のすぐそばだよ……」
泡の大地。
またその言葉だ。
その場にいる全員の顔が重く沈んだ。
だが、さらに奇妙な出来事が続いた。
四葉亭の奥の席に、
いつの間にか老人が座っていた。
客の誰も、彼が入る姿を見ていない。
老人は杯を指で弾き、
店主アシュレイの方へ向けて不思議な言葉を落とした。
「“馬に角が生え、烏の頭が白くなれば”――あり得ぬものが目を覚ます」
そして、
そのまま影のように席から溶けて消えた。
誰も声を出せなかった。
沈黙を破ったのは、
マリーベルの低く震える呟きだった。
「……現実に“あり得ぬ兆し”が出るとき、
存在の正体が揺らぎ始めると言われているわ。
あの老人……ただ者じゃない」
シルヴィアが爪を噛む。
「石女に、泡の大地。
今度は牛じゃなくて馬に角? 烏が白くなる?
なんか全部繋がってる気がしてきたね」
ライネルは青年を見据えた。
「お前の婚約者を探し出す。
だが確認したい。
本当に“レネア本人”だったのか?」
青年は震えながら頷く。
「信じてる……でも……あの姿は……
俺の知ってる彼女じゃなかった……!」
アリアが涙を滲ませる。
「“姿を失う”ことほど、寂しいことはないわ……」
青年は四人の手を掴み、必死の瞳で叫んだ。
「頼む……彼女を助けてくれ!
たとえ本物じゃなくても……俺は……!」
その言葉が、
ライネルの胸に重く沈む。
――本物とは何だ?
――存在の正体とは、どこにある?
泡立つ大地、
石になりかけた女。
老人の不吉な予言。
世界は確かに“増殖している”。
そしてそこには、
人の理解を超えた何かが潜んでいる。
四葉亭の四人は、
嫌な感情を押し殺しながら、
ゆっくりと立ち上がった。
「行くぞ。
存在の正体を確かめるために――」
物語は、静かに幕を開ける。




