第0289話 “安心”が壊れても、人はまた立ち上がれる
夜明け前の森は、奇妙な静けさに包まれていた。
霧は薄れ、空の端に白い光が差し始めている。
《四葉亭》の探索団――ライネル、シルヴィア、マリーベル、アリア――は、地に埋もれた木箱を囲んで立っていた。
前章で出会った“逆の遺産”。
それは、形を遺すことに取り憑かれた村の“安心”そのものだった。
マリーベルが掌をかざし、箱に小さな火を灯す。
しかし炎はすぐに吸い込まれ、何の変化も起きない。
「やはり……ただの物じゃない。
これは、思いの器。安心という“感情”の残骸よ」
ライネルが剣を突き立てる。
金属音が響いた。だが刃は通らず、逆に剣身が軋んだ。
「これを壊せば救われるわけではない……ということか」
「壊すのではなく、反論するのよ」
アリアが静かに言う。
「“安心”が呪いになったなら、それに異を唱えねばならない。
“安心してはいけない”と説くのではなく、“安心とは、生き続ける痛みを引き受けることだ”と伝えるの」
シルヴィアが苦笑する。
「詩人みたいなこと言うじゃない。……で、どうやって“感情”に話しかけるの?」
「そのための“逆の暗号”が、あの羊皮紙よ」
マリーベルが袋から例の文書を取り出した。
焼け焦げた部分の裏に、見えない文字が刻まれている。
アリアが聖水を垂らすと、淡い青光が浮かび上がった。
――「安堵は形を求める。
形は命を縛る。
命は土に戻り、
土は声をもって語る。」
その詩を読み上げるたび、箱が微かに震えた。
地の底から呻きが響き、霧の中に人影が幾つも現れる。
四つん這いのまま、空を仰ぐ者たち。
彼らの顔は穏やかで、どこか夢のように遠かった。
シルヴィアが短剣を抜いた。
「来るぞ!」
「待て!」ライネルが盾を構えながら叫ぶ。
「これは敵じゃない。
“安心”に縋る者たちだ――祈りが形を持っただけだ!」
マリーベルの瞳が紅く光る。
「なら、火を弱めよう。光だけを残して……“対話”する」
指先から炎が細く伸び、箱を照らした。
光は波のように揺らぎ、箱の表面に象徴的な像を描く。
――母が子を抱く姿。
それが、この“遺産”が生まれた理由だった。
「安心の形……“抱く”こと」アリアが呟く。
「でも、それを永遠に続けようとしたとき、命は止まる。
だから退化したのね。
歩くこと、立つこと、離れることをやめて……」
ライネルは膝をつき、地に手を当てた。
「ならば、俺たちが“離れる”儀式を行おう。
安堵に反論するための、退化への反撃だ。」
彼らは森の中央に円陣を組んだ。
マリーベルが火を、アリアが水を、ライネルが土を、シルヴィアが風を。
四大の属性がひとつの渦となり、箱を包み込む。
彼らの声が交錯する――詠唱でも呪文でもない、祈りの言葉。
「安堵よ、かたちを捨てよ。
恐怖よ、声を持て。
われらは立ち、また伏す。
それでも、進むことを選ぶ。」
大地が震えた。
箱の蓋がゆっくりと開く。
中には何もなかった――ただ、霧が音もなく立ち上る。
それが夜空へ昇り、消える。
残されたのは、静寂と、冷たい露の匂いだけ。
アリアが微笑む。
「……生霊を落とすことは、やはり難しい。
けれど、少しだけ“鎮まった”気がするわ」
マリーベルが炎を消し、肩で息をした。
「結局、“安心”ってのは生きることと同じね。
完全に手放すことはできない。でも、握り締めすぎても腐る」
シルヴィアが軽く笑い、短剣を鞘に戻した。
「上出来じゃない? 死人も生き返らなかったけど、死人の願いは昇ったみたいだし」
ライネルは剣を地に突き、朝日を仰いだ。
「安心とは、退化を拒む勇気ではなく、退化を受け入れる知恵。
……それがこの森の答えだろう」
遠くで鳥が鳴いた。
光が霧を貫き、長い夜が終わる。
そのとき、森の奥から一人の影が歩み出た。
オルドリック――依頼人の男。
彼の姿はどこか穏やかで、以前の恐怖はもうなかった。
「ありがとう……。
村の者たちは、もう“戻る”ことをやめたようだ。
でも……私だけが残された。
私は、あの安心を創った者だから」
アリアが近づき、彼の肩に触れた。
「それでも、生きてください。
“安心”が壊れても、人はまた立ち上がれる。
それが、生きるという顕現です」
男は小さく頷き、森の方へ去っていった。
その背中が霧の中に消えるころ、四人は静かに息を吐いた。
風が吹き抜ける。
朝日の中、森は再び沈黙を取り戻した。
退化の夢は終わり、顕現の朝が来たのだった。




