第0288話 形を保ち続けるために、命を閉じこめる器
森は、まるで息をしていた。
それも、人の呼吸ではない。もっと深く、地の底からあがる――獣の寝息のような音。
その中を、四人は進んでいた。
濃霧の夜、灯火を掲げ、足音を潜めながら。
ライネルが先頭に立ち、盾を握りしめている。
土の騎士の鎧は重く、湿った空気を吸って鈍い音を立てた。
後ろからシルヴィアの軽い靴音が続き、その横ではマリーベルの指先に赤い火がともる。
最後尾、アリアは祈るように胸の前で手を組んでいた。
「まるで、生きてる森ね」
シルヴィアが囁く。
霧の中から、どこかで枝の折れる音。
木々の影がゆらめき、誰かが這っているようにも見えた。
「這う、というより……“戻っている”」
ライネルの声は低く、湿った。
「人間が、地を這う形に戻っていく。それがこの森の呪いだ」
火の光が霧を切り裂く。
そこに現れたのは、獣のような足跡――いや、四肢で歩いた人間の痕だった。
指の跡が地に深く食い込み、ところどころに手のひらの爪痕が残っている。
アリアは息を呑んだ。
「まるで“退化”そのもの……。でも、どうして?」
「それが、“逆の遺産”の力よ」
マリーベルの声が鋭く響く。
「村が遺した“形”――安心、秩序、慣習。
それを死後も守ろうとした者たちの記憶が、腐って呪いに変わったの」
森の奥に、古い礼拝堂の跡が見えた。
屋根は崩れ、祭壇は苔むしていた。
壁には、焼け焦げた紋章――オルドリックが持っていた羊皮紙の印と同じもの。
ただ、ひとつ違っていた。
ここでは、その印が「裏返し」に刻まれている。
「……逆の印」
アリアが呟く。
マリーベルが指先で触れた瞬間、赤い火花が散った。
次の瞬間、地面が鳴動する。
根が裂け、土が沸き立ち、何かが地中から這い出してくる。
――それは、人の形をしていた。
だが、手足は異様に長く、指の関節が反対に曲がっている。
顔は地面に擦りつけるように伏せ、声にならぬ呻きを上げた。
「人間……?」
シルヴィアが後ずさる。
「違う、“戻った”人間だ」ライネルが剣を抜いた。
「遺産が、彼らを“形”に縛りつけた。
本来なら滅ぶはずの命を、“あり得ぬ形”で留めている」
獣の呻きが森に響き渡る。
アリアは叫んだ。
「やめて、斬らないで! あの人たちは――!」
しかし、その叫びよりも早く、マリーベルが呪文を放った。
炎が弾け、空気が悲鳴を上げる。
獣たちは焦げた肉の匂いを残して倒れたが、そのうちの一体が、呻きながら言葉を漏らした。
「……安心、していたのに……戻るだけだ……」
アリアの目に涙がにじむ。
「安心していたことが裏返る」――依頼人の言葉がよみがえる。
退化は、恐怖ではなかった。
彼らは“安堵”に戻ろうとしていたのだ。立つことをやめ、地に伏すことこそ“楽”だと信じて。
「彼らを生かしているのは、生霊だ」
マリーベルが呟く。
「生きている誰かが、“安心”を手放せずにいる。
その執着が、この森全体を動かしているのよ」
ライネルは剣を下ろした。
「なら、その者を見つけねばならん。
“退化”の根を断つには、生者を見つけねばならない」
そのとき――
森の奥から、鈴の音がした。
アリアが顔を上げる。霧の向こう、白い影が立っている。
長い髪を垂らし、両手に古びた箱を抱えていた。
「……あれは?」
「“遺産”よ」マリーベルの声が震える。
「あれが、呪いの核――“形を遺す”ために生まれた箱。
開ければ、全てが終わる。
でも、閉じておけば……退化は止まらない」
選択の時が来た。
安心を壊すか、退化を受け入れるか。
どちらを選んでも、何かが失われる。
ライネルが一歩前に出る。
霧の中、白い影の瞳が彼を見つめた。
その目は確かに人のもの――だが、涙ではなく霧を流していた。
「……あなたたちは、何を“残す”の?」
影が問う。
それはまるで、森そのものの声だった。
誰も答えられなかった。
静かな風が吹き、霧がふたたび濃くなる。
そして、白い影は消えた。
残されたのは、土の中に半ば埋もれた木箱。
古びた鍵がかかっており、開くことも壊すこともできない。
それが、“逆の遺産”――形を保ち続けるために、命を閉じこめる器。
シルヴィアが低く呟いた。
「つまり……この箱が、“安心”そのものってわけね」
アリアがうなずく。
「これを鎮めない限り、誰も立ち上がれない」
森の奥で、誰かがまだ這っている音がした。
それは遠く、終わりのない祈りのように、地をこする音だった。




