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第0287話 “安心”を食い荒らすものの正体

 夜の帳が降りるころ、酒場《四葉亭》の外には、いつもより深い霧が降りていた。

 まるで森が街を呑みこもうとしているように、冷たい靄が石畳を這い、灯籠の光をぼやかしていく。

 店の扉を押し開けた瞬間、湿った空気が一気に流れ込み、暖炉の火がぱち、と小さく鳴いた。


 その夜、依頼人が現れた。

 灰色のマントに身を包んだ男。手袋を外さず、目を合わせようとしない。

 ライネルはその姿をひと目見ただけで、ただならぬ事情を察した。

 土の騎士の勘は、いつだって重く鈍いが確実だった。


「……あんたが、噂の探索団か」

 低い声。

「俺の名はオルドリック。村で、奇妙なことが起きている」


 四人は目を交わし合った。

 シルヴィアが肩をすくめ、マリーベルが腕を組む。アリアは無言で湯気立つマグを依頼人の前に置いた。

 彼の震える手元に、スープの香が微かに満ちる。


「奇妙なこと、というのは?」

 マリーベルの声には火のような棘がある。

 だが、男は答える前に、しばらく唇を噛みしめた。

「……村の者が、歩き方を忘れていくんだ。最初はふざけているのかと思った。だが今では、皆、四つん這いで暮らしている。まるで……人間が獣に退化していくように」


 アリアの手が止まった。

 シルヴィアは苦笑を浮かべながらも、どこか怯えた目で依頼人を見た。

「冗談にしちゃ悪趣味ね。何かの疫病ってわけ?」


「いや……」

 オルドリックは首を振った。

「一人、書き残した者がいた。彼の言葉によると、“安心していたこと”が裏返って現実になったと。

 それ以来、誰もが何かに怯えて暮らしている。

 夜ごと、森の奥から“あり得ぬはず”の声が聞こえるんだ」


 静寂。

 外では風が森を叩き、枝の擦れる音が人の呻き声に似ていた。


 ライネルはゆっくりと椅子を引いた。

「つまり――“あり得ぬはず”が現実になった。

 それが村を蝕んでいる。そういうことだな?」


 男は頷いた。

 その首の動きさえ、どこかぎこちなく――まるで関節が人のそれではないような。


 シルヴィアが立ち上がり、軽く口笛を吹いた。

「こりゃ面白くなってきた。退化する村、あり得ぬ現実。

 あたしはこういう“変な話”が大好物なんだよね」


「ふざけるな」

 ライネルの声が低く響く。

「人が獣になるんだぞ。冗談で済む話ではない」


「でも、恐怖の正体を見極めるのが、あたしたちの仕事でしょ」

 火の魔法使いマリーベルが口を挟む。

 彼女の掌には、すでに小さな炎が灯っていた。

「“安心”が裏返る、か……面白い比喩ね。

 つまり、人は“あり得ない”と信じてきたものに依存していた。

 その安心こそが呪いになったのよ」


 アリアは小さく祈りの印を結んだ。

「……なら、鎮めるべきはその“安心”の亡霊かもしれない。

 それは、生霊のようなもの。自分で作った信念に取り憑かれる、悲しい形。」


 沈黙が落ちる。

 暖炉の火がパチパチと鳴り、天井の梁の影がゆらゆらと踊った。


 やがて、オルドリックは懐から一枚の羊皮紙を取り出した。

 そこには複雑な印章と文字が記されていたが、ところどころが焼け焦げて判読できない。

「これを……見つけた。暗号のように見えるが、村の神父も解けなかった。

 この印を見た者は、翌朝には四つ足で歩いていた」


 マリーベルがそれを受け取り、目を凝らす。

「……炎で焼かれた痕。でも、何か隠してある。

 “逆の暗号”……普通の読み方では駄目ね。

 もしかして、裏側に意味がある?」


 シルヴィアが紙を裏返すと、そこには奇妙な模様――まるで人の手と獣の足が重なったような印が浮かび上がっていた。

 アリアが息をのむ。

「……生と死、そして退化と顕現。

 この村、きっと何か“逆”に動いている」


 ライネルは拳を握った。

「行こう。森の奥へ。

 “安心”を食い荒らすものの正体を、暴かねばならん」


 四人が立ち上がると、外の霧がさらに濃くなった。

 まるで彼らの決意に応えるように、夜の森が口を開ける。

 底知れぬ穴のような暗闇が、そこに待っていた。


 ――そして、彼らは知らぬ。

 この依頼の果てに、安堵の形をした“生霊”が待つことを。

 それを落とすことが、どれほど困難かを。

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