第0286話 知ることが罪なら、あたしは罪の風ね
風が、街の屋根の上をなでていった。
鐘の音が低く響き、露の匂いが漂う。
シルヴィアはいつものように屋根から屋根へと軽やかに渡りながら、
昨夜〈四葉亭〉で聞いたライネルの報告を思い返していた。
“人が獣になる”。
あの堅物の騎士が冗談を言うはずもない。
けれど――彼の目に宿っていたのは、剣よりも鋭い恐れだった。
「地が呼吸している、ねえ……」
独り言のように呟き、風を読む。
空気の流れに異物がある。
東から、微細な囁きのような符号の気配。
それは、言葉であり、風紋でもあった。
昼過ぎ、〈四葉亭〉の扉が軋んだ。
新しい依頼が持ち込まれたのだ。
差し出された羊皮紙には、
「ゲルハルトの記録を解読してほしい」とだけ書かれていた。
差出人は、彼の弟子を名乗る青年。
震える手で差し出したのは、奇妙なノートだった。
土と血で染まった紙面には、
人の言葉ではない記号が刻まれていた。
丸と線、風紋と似た渦。
しかし、読むたびに形が変わる。
「……暗号?」とライネル。
彼の声は低く、慎重だった。
シルヴィアは片眉を上げた。
「暗号っていうより、風の迷路ね。読むたび逃げる」
「解けるか?」
「さあ。あたし、風は読めても、神の悪戯までは知らないわ」
夜。
ランタンの明かりの下で、シルヴィアはひとり紙を広げていた。
風が窓を叩くたび、文字が微かに揺らぐ。
読むこと――それが罠のように感じられた。
そのとき、背後から声がした。
「読まない方がいいかもしれません」
声の主は、老司書ベルンハルトだった。
彼は灰色の外套に包まれ、静かに歩み寄る。
「その文字は“リクエリウム・コード”。
古代の鎮魂暗号です。
読む者の恐怖を、形にして顕す」
「……読むだけで?」
「読む“意志”が、すでに呼び水となるのです。
だからこそ、知らぬ者だけが、封を保てる」
知らぬことが、救い――。
シルヴィアは、皮肉に笑った。
「ねえ爺さん。知らないでいるって、そんなに大事?」
「時には。
知識は光ではなく、火種です。
扱いを誤れば、すべてを焼きます」
その言葉を聞いたとき、シルヴィアの胸の奥に
何かがざらついた。
彼女は風を操る。
すべてを感じ取ることで、生き延びてきた。
“知らないことが正しい”なんて、
今まで一度も考えたことがなかった。
その夜、彼女は夢を見た。
風が止まり、静止した世界の中で、
一本の糸が宙に浮かんでいる。
その糸に触れた瞬間、
空が裂け、四足歩行の影が現れた。
獣たちは人の顔をしていた。
どの顔も、恐怖で凍りついている。
“安心していた人間たち”の末路。
彼らは言葉にならぬ声で叫んでいた。
――読むな。
――知られることは、死ぬことだ。
目覚めたとき、額に汗が滲んでいた。
夜明け前の風が、冷たく頬を撫でる。
シルヴィアは机の上の紙片を見た。
紋様の形が変わっている。
“あんたを知ってる”とでも言いたげに。
「ふざけないでよ……風はあたしの領分だ」
彼女は指先で風を巻き起こした。
微細な気流が紙を包み、揺らす。
すると、紋様の一部が剥がれ、下から別の線が浮かび上がった。
そこには、古代語でこう記されていた――
『還りたい者たちを、名で呼ぶな。呼べば顕現する。』
ライネルに報告すると、彼は険しい表情をした。
「“呼ぶな”とは、つまり……?」
「言葉が鍵なんでしょ。名前を知るだけで、開く扉もある」
「だが、それでは調査にならん」
「そう。だからこそ、あんたは地に縛られ、あたしは風で逃げる」
シルヴィアは軽く笑った。
その笑みは、どこか寂しげでもあった。
知れば壊れる。知らねば届かない。
探偵としての本能と、恐怖の境界が溶け合う。
その夜、彼女は再び森へ向かった。
風に託された声を確かめるためだ。
古井戸のそばには、まだ湿った土の匂い。
そこに、風紋のような新しい刻印があった。
渦の中心に立ち、耳を澄ますと、声が聞こえる。
――「風の者よ、知るな。」
――「知らぬことこそ、われらの墓標。」
声が、頭の奥に直接届く。
恐怖が血の中で泡立ち、シルヴィアは思わず膝をついた。
“知りたい”という欲望が、風とともに軋む。
だがその瞬間、
どこからか柔らかな気配が降りてきた。
それは〈四葉亭〉の方角――アリアの祈りの波動だった。
「……水の子が、呼んでる」
風が、彼女を包み込んだ。
恐怖の渦が、一瞬だけ静止する。
街へ戻る途中、東の空が明るんだ。
夜明けの風が、頬を切る。
シルヴィアは小さく呟いた。
「知ることが罪なら、あたしは罪の風ね」
彼女は振り返る。
森の奥――風紋が、まるで呼吸するように波打っていた。
知らぬまま、見逃すこと。
それが、最初の“鎮魂”なのかもしれない。
そう思ったとき、彼女の胸の奥に
確かな違和感が生まれた。
“安心”が、音を立てて崩れていく。




