第0285話 安心というものが、いちばん恐ろしい……
――夜が、崩れていた。
街の外れにある森林地帯では、満月が雲を裂き、湿った光を落としていた。
その光の中を、鎧の男が一人、黙々と歩いていた。
土属性の騎士ライネル。
彼の足跡は重く、沈むように地へ吸い込まれていく。
“二足で立つこと”が、まるで不安定な行為に思える夜だった。
事件の報せは、酒場〈四葉亭〉を通じて届いた。
昼間、村の男が一人、森の中で「四つ足になって走り回っていた」との目撃談。
冗談のように聞こえたそれを、ライネルは笑わなかった。
かつて戦場で、似た“異形化”を見た記憶がある。
理屈では説明できぬ何かが、人を退化させる。
その過程には、いつも“恐怖の鎮魂”があるのだ。
森の入口で、彼は依頼人の男に出会った。
粗末な革衣の冒険商人――ガイウス。
彼の声は震え、手には獣毛の付いた布を握っていた。
「……あれはゲルハルトなんだ。間違いない。あいつの斧を、見つけたんだ」
「見つけた場所は?」
「古井戸のそばだ。あいつ、最初は“足が重い”って言ってて……数日後には、言葉が出なくなって……」
ガイウスは唇を噛み、吐き捨てるように言った。
「まるで……人間の形を、やめていくみたいだった」
ライネルは、森の空気に潜む“沈黙の重さ”を感じ取った。
夜風が枝を鳴らすたび、何かが動いている。
だがその動きは、獣のものではない。
音の数だけ、空間が沈むような、重力の歪み。
足元には、這うような跡があった。
指の痕が、地をえぐる。
二足歩行ではなく、四肢の均等な圧力――まるで、人が獣の歩き方を覚えたかのように。
井戸の跡地は崩れ、石垣の間から冷気が漏れていた。
その中心に、何かがうずくまっている。
ライネルが近づくと、それは“人の形をほぼ保ちながら、獣の姿勢で”眠っていた。
背には毛が生え、腕は地をつかみ、目だけが人間のまま――見開かれていた。
「……ゲルハルトか」
彼は名を呼んだ。
その瞬間、男の瞳がかすかに動いた。
土を噛む音。
唇が引き裂かれ、獣のうなりと人の息が混ざる。
「……ライ……ネ……ル……」
それは、かつての友の声だった。
そして次の瞬間、彼の体は四足で跳ね、闇へと消えた。
夜が戻ったあと、ライネルは地面に残る印を調べた。
爪痕の間に、不可解な螺旋の紋が刻まれている。
血ではない。土が自ら盛り上がって形成されたような、自然の“顕現”。
触れた瞬間、彼の脳裏に鈍いざわめきが走った。
――「あり得ぬはず」と思っていたものが、こちらを見ている。
その感覚に、彼は思わず後ずさる。
心の奥に眠る“退化への恐れ”が、形を取り始めていた。
〈四葉亭〉に戻ると、仲間たちが待っていた。
火の明かりに照らされたカウンター。
女盗賊のシルヴィアが酒瓶を傾け、笑みを浮かべた。
「森で泥遊びでもしてきたの? 顔が暗いわよ、騎士様」
「遊びではない」
「……冗談よ。でも、あんたの目、いつもより“地の底”を見てる」
ライネルは答えなかった。
代わりに、螺旋の印を描いた紙片をテーブルに置く。
「これが森で見つかった。土が、自ら形を変えたようだった」
「生きてる土? ――気味悪いわね」
奥から現れたのは、水属性の僧侶アリア。
彼女は印に手をかざし、そっと瞳を閉じた。
「……冷たい。けれど、動いている。
この印、“還りたい”という声を感じます」
シルヴィアが眉をひそめた。
「還る? どこに?」
「たぶん、“人のかたち”の前に、あった場所です」
その言葉に、ライネルは無言で杯を取った。
酒が喉を通る感覚が、どこか遠い。
“還る”という響きが、胸の奥の闇にひっかかる。
かつて、彼自身も似た恐怖を見た。
戦場で、理性を失った兵士たちが、
「楽になりたい」と言いながら、自ら四つん這いになって進む光景。
安心――その言葉が、どれほど脆いかを知っている。
夜更け、彼は一人で再び森に向かった。
空気が、濃く、湿っている。
耳を澄ますと、地面の下から音がする。
人の声ではない。
土が呼吸している。
古井戸の底から、淡い光が漏れ出した。
覗き込むと、そこには暗い水面があり、
その中に、自分の顔に似た何かが沈んでいる。
見た瞬間、胸が締めつけられた。
安心していたはずの“現実”が、
音もなく、裏返る。
翌朝、〈四葉亭〉の掲示板には新たな依頼書が貼られていた。
書き手は名も無い。
ただ一文――
「人の形に戻れぬ者を、鎮めてください。」
その筆跡を見たとき、ライネルは確信した。
これはただの呪いではない。
“人が人であることへの安心”そのものを、試されている。
その日の夜明け、彼は短く呟いた。
「安心というものが、いちばん恐ろしい……」
光が昇る。
森の奥では、まだ四つ足の影がうずくまっていた。
退化と顕現――その均衡が、静かに揺らぎ始めている。




