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第0284話 “嫌な感情”もまた、生の一部として輝き続ける

 朝の鐘が、四葉亭の屋根を震わせていた。

 その音は、夜の湿りを払うように明るく澄んでいる。

 客の少ない時間帯――

 カウンターの奥では、水の僧侶アリアが磨いたばかりの聖杯を布で拭いていた。

 火の魔法使いマリーベルは炉端に腰をかけ、煙草の煙を指で弄んでいる。

 風の盗賊シルヴィアは窓辺で足を揺らし、

 土の騎士ライネルは黙って酒を飲んでいた。

 ――そして、彼らの視線の先には、ひとりの青年がいた。


 旅を終えた青年は、店の片隅でゆっくりと赤子をあやしていた。

 赤子は静かに眠っている。

 もう、あの異様な重みは感じない。

 それでも、腕の中には確かな温度があった。

 それは罰でも、贖罪でもなく――

 ただ、ひとりの命の体温だった。


 「お帰りなさい」

 アリアが微笑む。

 青年は軽く頭を下げた。

 「……戻ってきた。ようやく、“嫌な感情”の意味がわかった気がする」

 「教えて?」と、シルヴィアがひょいと椅子に腰かける。

 青年は静かに言った。

 「それは、魂がまだ“壊れていない”証なんだ。

  嫌悪も、嫉妬も、罪悪感も……誰かを思い続けるための鼓動だ。

  それがある限り、人は石にはならない」


 その言葉に、マリーベルがふっと笑った。

 「詩人になったじゃないの。昔のあんたなら、すぐ逃げてたわ」

 「逃げたくても、重かったからな」

 青年が冗談めかして答えると、ライネルが小さくうなずいた。

 「重みとは、選択の証だ。軽くなった者は、もう選ばない」

 「でもね」アリアが言う。「それでも人は、軽くなりたいと願うものよ」

 「そうだな」

 青年は、赤子の髪を撫でた。

 「軽くなりたい。でも、完全には軽くならない。それでいいんだと思う」


 外の街は、祭りのように騒がしかった。

 修道院の再建を祝う鐘が鳴り、人々がパンと葡萄酒を掲げている。

 かつての尼僧たちは、もういない。

 だが、彼女たちの祈りは蟻の声となって、今も地中を走っている。

 地の下で、誰かが誰かを赦しながら、言葉を紡ぎ続けているのだ。

 青年はその音を、確かに聞いていた。


 > 「――赦しとは、石のように沈黙することではなく、

 >  土のように語り続けること。」


 ライネルが立ち上がる。

 「さて、次の依頼が届いている。四葉亭は静けさを嫌う」

 マリーベルが杖を取り、炎を灯す。

 シルヴィアが鍵束を鳴らす。

 アリアが聖書を閉じる。

 そして四人の視線が、青年へと集まった。


 「あなたは?」

 アリアが尋ねる。

 青年は赤子を見つめたまま答えた。

 「……もう少し、ここで生きる。赦されることを望むより、語り続けたいんだ」

 ライネルが微かに笑みを浮かべた。

 「いい言葉だ。人の魂は“語る”ことで、いつでも祝福される」


 外では、陽光が石畳を照らしている。

 赤子が目を覚まし、小さな手を伸ばした。

 指先で光を掴むようにして笑う。

 青年は思った。

 ――これは、始まりの笑みだ。

 嫌な感情を抱きながらも、それを“祝福”へと変えていく笑み。


 そのとき、彼の足元を一匹の蟻が通り過ぎた。

 蟻はパン屑を運びながら、かすかに音を立てていた。

 耳を澄ますと、それは言葉だった。

 「ありがとう」と。


 青年は微笑んだ。

 「こちらこそ――ありがとう。」


 鐘が鳴る。

 光が差す。

 四葉亭の扉が開き、新しい客が入ってくる。

 旅は終わらない。

 人の心が語り続ける限り、“嫌な感情”もまた、生の一部として輝き続ける。


 そして、遠くの空の下では――

 蟻たちの会話が、風のうたのように響いていた。

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