第0283話 赦しとは、語り終えぬまま笑うこと
――地の底から、ざわめきが聞こえた。
それは風でも雨でもなく、無数の声が一斉に囁く音だった。
青年はその音に導かれるように、夜明けの森を歩いていた。
腕の中の赤子は、もう泣かない。
ただ、胸の奥で微かに心臓が鳴っているのを感じる。
それは不思議なリズムだった。
蟻たちの行進と同じ拍動。
生きるものたちが、大地の奥で語り合うような――そんな律動。
森の奥には、古い修道院の地下へと続く裂け目があった。
そこはかつて、尼僧たちが祈りを捧げた聖域。
今は崩れ、苔むし、光も届かない。
青年は松明を掲げ、地下へと足を踏み入れた。
風のような声が耳を掠める。
「――罪は、石ではない。石は、言葉の残骸だ」
それは、かつて水浴をしていた尼僧の声だった。
彼女たちは石となったあとも、この地下で“語り続けていた”のだ。
壁一面に浮かぶ灰色の像たちが、わずかに口を動かしている。
蟻のような小さな声が、絶え間なく重なり合い、やがて意味を帯びてゆく。
その響きは、祈りとも呪いともつかぬ奇妙な詩だった。
> 「赦しを乞うた者たちの声は、やがて土に還る。
> だが、土の中ではなお、言葉が息をしている。
> それを“蟻”が運ぶ。
> 人が忘れた言葉を、再び地上へ運ぶために。」
青年は耳を澄ました。
蟻の会話が、少しずつ人の言葉に変わっていく。
彼らは、あの尼僧たちの残した記憶だった。
石となった肉体の代わりに、蟻の群れが“言葉”を背負って生きている。
生きるとは、沈黙の中で言葉を運ぶこと――
そのことに気づいた瞬間、青年の胸がかすかに震えた。
「……俺もまた、運ばれていたのかもしれない」
その呟きに応えるように、赤子が目を覚ました。
黒曜石のような瞳が、暗闇の中で光る。
「おまえは、誰なんだ?」
青年が問うと、赤子の唇が動いた。
「……ぼくは、“あなた”だよ」
その声は、兄嫁の声だった。
甘やかで、懐かしく、そしてどこまでも冷たい。
青年の意識が揺らぐ。
過去と現在が重なり、記憶の底が泡立つ。
兄の葬儀の夜、兄嫁の指が彼の唇に触れた瞬間――
そこから始まった罪が、いまこの赤子に形を変えて蘇っている。
だが、もう逃げない。
彼は赤子を抱きしめ、はっきりと告げた。
「俺はおまえを愛している。だが、それは過去の延長ではない。
俺が愛しているのは、“罪”の中でまだ生きようとするこの瞬間だ」
その言葉とともに、地面が震えた。
蟻たちの声が歓喜に変わる。
石像の尼僧たちが、ゆっくりと崩れ始めた。
粉となり、風に散り、光に還る。
その光は地下を満たし、まるで朝のように柔らかく温かかった。
土の騎士ライネルが現れた。
「ようやく、答えを見つけたか」
青年はうなずいた。
「“嫌な感情”は、神が人に与えた思考の種だ。
それを拒むのではなく、語り合うことこそが、赦しへの道だと知った」
騎士はわずかに微笑んだ。
「ならば、もう罪を恐れることはない。
人は罪によって生き、痛みによって他者を知る。
それを否定する神はいない」
火の魔法使いマリーベルが火花を放つ。
風の盗賊シルヴィアが笑う。
水の僧侶アリアが静かに祈る。
四人の狂言回したちが、青年の背後に立つ。
「お前の選んだ“重み”は、私たち全員の信仰でもあるのよ」
アリアの声に、青年は頷いた。
そして、胸の中の赤子が静かに眠りにつく。
その寝息は、まるで無数の蟻が地中で語り合うように、静かで、力強かった。
地上へ戻ると、朝の光が差していた。
四葉亭の屋根に露が光り、遠くで鐘の音が響く。
ライネルがつぶやく。
「終わりではない。……“祝福”は、これからだ」
青年は空を見上げた。
その空の下では、蟻たちが列をなし、土を掘り、また何かを運んでいる。
耳を澄ますと、確かに聞こえる。
無数の声が、ささやき合うように。
> 「罪とは、歩きながら語ること。
> 赦しとは、語り終えぬまま笑うこと。」
青年は微笑んだ。
嫌な感情は、もう敵ではなかった。
それは、人の形を保ちながら、なお世界を照らす小さな灯火となっていた。




