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第0282話 信仰も愛も、憎しみさえも、死なずにここにある証

 夜の森は、まるで祈りを飲み込んだように静かだった。

 月光は枝のあいだから滲み、湿った苔に淡く反射している。遠くでフクロウが鳴いた。

 青年――いや、今や「罪を抱いた夫」は、腕の中にある小さな重みを見下ろした。

 赤ん坊だ。

 拾ったわけではない。

 泉のほとりで尼僧が石になったその瞬間、水面からすくい上げたものが、なぜかこの赤子に変わっていたのだ。


 最初は軽かった。

 生まれたての羽根のように。

 けれど、歩くたびに重みが増していく。

 一歩進むごとに、胸が軋み、肩が軋む。

 それでも、彼は手放せなかった。

 重いほどに愛おしい。

 苦しいほどに、手放せない。

 まるで、自分の罪そのものを抱えて歩いているようだった。


 「その子は、抱くほどに重くなる」

 闇の中から声がした。

 声の主は、土の騎士ライネルだった。

 彼はいつの間にか傍らに立ち、厚いマントの影から冷ややかな眼差しを向けている。

 「それは“援助者”だ。罪を忘れようとする者の腕にだけ現れる。抱き続ければ、やがて自分を潰す」

 ライネルの声は低く、乾いていた。

 彼の言葉には、痛みを知る者の重さがあった。


 「けれど、手放したら?」

 青年が問うと、騎士は淡く笑った。

 「その時、お前の心は軽くなるが、同時に空っぽになる。……重さと痛みこそが、お前の信仰の証なのだ」


 その言葉に返すように、風がざわめいた。

 木々の影から、シルヴィア――風の女盗賊が現れる。

 「おやおや、また説教かい? 人が背負うもんなんて、軽くしてなんぼだろ?」

 彼女は軽やかに青年の肩を叩き、赤子を覗き込んだ。

 その瞬間、赤子はさらに重くなった。

 地面が沈み、青年はよろめく。

 「ふふ、可愛いじゃないの。……でも、見ろ、涙を流してる。お前のじゃない、“子どもの”涙だよ」

 盗賊は、月光に濡れた頬を見せた。

 赤子の瞳は、確かに涙を湛えていた。

 その涙は、あの泉と同じ色をしていた。


 森の奥から、火の女魔法使いマリーベルが歩み出てきた。

 赤髪が燃えるように揺れ、空気が熱を帯びる。

 「その子を放しなさい。放さなければ、あなたは“石”になる」

 その言葉に青年の腕が震えた。

 思わず、抱いていた赤子を地に下ろそうとする。

 けれど――できなかった。

 指が離れない。

 体が拒む。

 まるで赤子が血のように腕に溶け込み、離れることを許さぬかのようだった。


 「放せない……」

 青年が呻くと、マリーベルは炎の杖を掲げた。

 「なら、焼き切るまで!」

 炎がうねり、赤子を包み込む。

 だがその火は、赤子を焼かずに青年の心臓を貫いた。

 熱い。痛い。

 それでも――なぜか、懐かしい。


 「やめて」

 水の女僧侶アリアが現れた。

 その声は泣いているように柔らかく、炎を鎮めた。

 「この人はまだ“赦されていない”。……焼かれても、なお求めているのよ。愛と赦しを」

 アリアはそっと赤子を抱き上げた。


 不思議なことに、彼女が抱くと赤子の重さは消えた。

 まるで水に溶けるように軽くなる。


 「あなたには“嫌な感情”がある。それは恥ではないわ」

 アリアの目には、かすかな涙があった。

 「それは、まだ生きている証拠よ。信仰も愛も、憎しみさえも、死なずにここにある証」


 青年はその言葉に、はっとした。

 尼僧たちが石になった理由。

 それは、感情を封じ、痛みを拒んだからではなかったか。


 ならば、自分が抱くこの重さ――それは罰ではなく、「まだ終わらぬ祈り」そのものなのではないか。

 赤子が泣いた。

 涙が彼の頬を伝う。

 重みが再び増したが、それでも彼は微笑んだ。


 ライネルが静かに剣を抜く。

 「それが、お前の選ぶ道か」

 青年はうなずいた。

 「この重みとともに、生きる。それが、俺の信仰だ」

 騎士はしばし沈黙し、そして短く答えた。

 「……ならば、見届けよう。人が“重み”に耐えた先に何を見るのか」


 風が吹いた。

 火が揺れ、水が滴り、土が鳴る。

 四つの元素がひとつの和音を奏でた。


 青年は腕の中で眠る赤子を見つめた。

 その小さな唇が、何かを呟いた。


 それは、言葉にならぬ声。

 だが確かに、そこに意味があった。


 「……蟻の、声?」

 青年の耳に、かすかな音が届いた。

 地の底から、無数の蟻たちが語り合うような――微かな囁き。

 それが、次なる“真実”への導きとなることを、まだ誰も知らなかった。

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