第0281話 「嫌な感情」とは、赦されたいという祈りの裏返しではないか、と
──静かな鐘の音が、石畳を這うように遠ざかっていった。
修道院の裏手にある泉では、朝の光が水面に反射し、壁を淡く照らしている。そこに立つのは、白衣の尼僧たち。彼女たちは沈黙のうちに衣を脱ぎ、ひとり、またひとりと水へ身を沈めていく。
水音が響くたび、空気が震え、どこか遠くで誰かのため息のような音がした。
主人公――修道院の客人として招かれた青年は、その光景を見ていた。
いや、見ていた、というより「見てしまった」のだ。
視線を逸らすべきだとわかっていても、目が離せなかった。
冷ややかな水が彼女たちの肩を撫でるたび、白い肌が光を返す。水滴が指先を伝い、やがて大地に落ちていく瞬間、なぜか彼の胸は締めつけられるように痛んだ。
「……罪なのだろうか」
そう思いながらも、彼は目を閉じられない。
信仰を守るはずの尼僧たちが、まるで祝福の儀式のように水を浴びている。その動作には穢れも欲もなく、ただ、ひたむきな「祈り」のようなものが宿っていた。
それなのに――彼の胸に湧いたのは、清らかさでも、敬意でもなかった。
もっと、どす黒く、形のない「嫌な感情」。
それが喉の奥に澱のようにたまっていく。
彼はふと、兄嫁の指を思い出した。
あの、石のように冷たく、それでいて燃えるように熱い指先。
結婚式の夜、彼女が自分の頬に触れた瞬間――彼は、兄の妻に恋をしてしまったことを、はっきりと理解したのだ。
それ以来、胸の中の罪は増殖を続けている。
兄はすでに亡くなり、今は自分がその妻と暮らしているというのに、罪は薄れるどころか、日に日に濃くなっていく。
愛という名の石。赦しという名の鎖。
そのどちらも、いまや彼の肉体の一部になりつつあった。
泉のほとりに佇む尼僧のひとりが、こちらを見た。
年若い、透けるような瞳をした女。
その視線は、水よりも冷たく、しかしどこか懐かしさを帯びていた。
彼は息を飲む。
尼僧はゆっくりと歩み寄り、言った。
「見てはいけません。……けれど、見てしまったなら、あなたはもうこちら側です」
声は穏やかだったが、言葉の意味は底知れぬ深さを持っていた。
彼女の足元から、薄い靄が立ち上る。
水面がざわめき、泡立ち、まるで水が生き物のように蠢く。
尼僧たちの体がゆっくりと光に包まれ、次第にその輪郭が石に変わっていった。
それは恐怖ではなく、祝福のようだった。
柔らかな肌が石の灰色へと変わり、表情のひとつひとつが永遠に封じられていく。
青年は震えながら、思った。
「なぜだ。なぜ、彼女たちは……赦しの代わりに、石を選ぶのか」
答えるように、風が吹いた。
泉の表面に波紋が広がり、その中心に、兄嫁の顔が映った。
彼女は微笑んでいた。
その微笑みは、尼僧たちと同じもの――
静かに、自らの罪を受け入れ、形を失わぬまま祈りへと変えていく者の微笑みだった。
青年は水に手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、冷たさとともに、重みが走る。
まるでその水が、見えない赤ん坊のように、抱けば抱くほど重くなる。
それは「援助者」――罪を抱えながらも、なお生きようとする存在の象徴だった。
彼は思う。
この重みを拒むことはできない。
なぜなら、それこそが「生きている」証だからだ。
泉の音がやんだ。
水浴していた尼僧たちは、もう動かない。
白い衣の代わりに、灰のような粉が舞い上がる。
青年は静かにひざまずき、掌で水をすくった。
その水は、まだ温かかった。
それが何を意味するのか、彼は知らない。
ただ、心のどこかでこう感じた――
「嫌な感情」とは、赦されたいという祈りの裏返しではないか、と。
その日、彼は初めて涙を流した。
だがその涙もまた、泉の底で石へと変わっていった。
空は青く、鳥が飛び、風が頬を撫でる。
しかし世界の色は、どこかで確実に変わっていた。




