第0280話 我が神は沈黙を許さぬ
夜明け前の修道院は、まるで海底のように静かだった。
聖水鉢に映る月がゆらめき、誰もいない回廊に水音が細く響く。
その音を聴いていると、信仰とは水に似ている――そう思えてくる。
すくい上げれば形を失い、掬わなければ乾いていく。
エドワードは、廊下の端で立ち止まり、
壁にかかった兄の肖像画を見上げた。
温和な笑み。その奥に、今はもう届かない声がある。
「兄上……あなたは、何を清めようとしていたのですか。」
四葉亭の面々は、それぞれ別行動を取っていた。
マリーベルは礼拝堂の裏にある薬棚を調べていた。
乾いたハーブ、聖油、そして青黒い小瓶。
瓶の底には、淡く光る“灰色の粉”が沈んでいた。
「これは……粉末状の石。まるで、人を砕いたみたい。」
シルヴィアは回廊の上の梁を伝い、修道女たちの談話室を覗いた。
そこでは二人の尼僧が、小声で囁いていた。
「ミリエル様は、まだ“あの儀式”を続けておられるのですか?」
「ええ……『魂の水浴』を止めたら、神が沈黙してしまうと。」
シルヴィアは唇を噛んだ。
「魂を清めるために、命を石に変える……? 冗談じゃないわね。」
一方、アリアは聖堂の奥、封じられた小部屋にいた。
壁には古い祈祷文が彫られ、そこだけ空気が違っていた。
冷たく、重い――まるで言葉そのものが石になったような場所。
彼女は古い羊皮紙を見つける。
その題名は、消えかかった金文字でこう記されていた。
> 『水の聖典 ― 清めの章』
読み進めるうち、震えが走る。
> 「信仰深き者、己を石とせよ。
> 石は動かず、迷わず、永遠に清らかである。」
アリアは涙を零し、膝をついた。
「そんなの、神の言葉じゃない……。」
背後でライネルの足音がした。
「神が言ったか、人が言ったか、どちらでも同じことだ。
信じた者が、それを“真実”に変えるんだ。」
その声は土のように重く、現実の匂いがした。
昼前、修道院の中庭に四人が集まる。
マリーベルが瓶を机に置き、
「これは“石化の灰”。見習い僧の遺骸をすり潰して水に溶かしてる。
儀式の“聖水”って、つまり――人そのものなのよ。」
アリアが悲痛な声を上げた。
「そんな……人の命を清めるために使うなんて。」
シルヴィアが皮肉気に笑う。
「信仰ってやつは、時々とんでもない遊び方をするのね。」
ライネルがエドワードを見た。
「お前の兄は、この儀式を止めようとして殺されたんじゃないか?」
エドワードは目を伏せた。
「……兄は、最後まで信じていました。
“清めの儀式”が人を救うと。
けれど、兄嫁――マリアは、
兄の死のあと、夜ごとこの修道院に通っていたのです。
まるで、罪を洗い流すように。」
その夜、ライネルとエドワードは修道院の地下へ向かった。
封印された古井戸があると聞いたのだ。
井戸の口には鉄の鎖がかかっており、古びた札が貼られていた。
> 『開けるなかれ、己が姿を見るなかれ。』
ライネルが鎖を断つと、冷たい風が吹き上がる。
井戸の底に水がない――代わりに、巨大な石の像があった。
膝を抱え、苦しげに身をよじる“人の形”。
「……これは?」
「“穴の中に入り、体が大きくなって出られなくなった”者の成れの果てだ。」
エドワードは膝を震わせた。
「兄上……?」
像の手には、祈祷書が握られていた。
開かれたページには、かすれた字でこう書かれていた。
> 『神の沈黙は、信仰の重さである。』
地上に戻ると、リディア――“抱くと重くなる赤子”が待っていた。
修道院の尼僧が連れてきたのだ。
「マリア様から預かりました。この子を……お父様にと。」
エドワードは震える腕で抱き上げた。
その瞬間、身体がずしりと沈む。
骨が軋むほどの重さ。
まるで罪と信仰のすべてを抱えているようだった。
ライネルが低く呟く。
「重いか?」
「ええ……けれど、不思議と温かい。」
その重さの奥に、何かが宿っている――そう感じた。
それは、嫌な感情のかたまり。
愛と後悔、信仰と欲望が絡み合い、
まるで石が人の心臓に変わろうとするような、
奇妙なぬくもりだった。
夜更け、修道院の鐘が鳴る。
ミリエルの部屋の扉が、ひとりでに開いた。
蝋燭の光の中、彼女は静かに水浴をしていた。
その背中に、聖痕のような黒い模様が浮かんでいた。
エドワードは扉の外からその姿を見つめた。
あれほど神聖で、同時にあれほど背徳的な光景を、
彼は生涯見たことがなかった。
その瞬間、彼は理解する。
聖なるものは、必ず破綻を孕む。
清めの儀式は、穢れと紙一重のもの。
嫌な感情――それこそが、神の沈黙の正体なのだ。
翌朝、修道院の門前に異端審問官ベルナールが現れた。
黒衣に赤い十字、冷たい眼差し。
「我が神は沈黙を許さぬ。異端の水を、すべて焼き払う。」
ライネルが剣に手をかけた。
マリーベルの魔力が揺れる。
風がシルヴィアの髪を撫で、アリアの瞳が震える。
――信仰を守るための戦いが、今始まろうとしていた。




