第0279話 神の沈黙を暴くおつもりですか?
港の朝は、いつも濁っていた。
海霧が灰色の空と混ざり、鐘の音が湿気を帯びて鈍く響く。
人々は黙々と石畳を歩き、パンの香りに導かれるように市場へ向かう。
その街角の奥、剥げた木の扉に四つ葉の印が刻まれた酒場がある。
「四葉亭」――探偵たちの集う場所だ。
扉を押し開けると、燭台の火がゆらめいた。
奥の席には、四人がいた。
土属性の騎士ライネルは黙って椅子にもたれ、
粗末なパンを噛みながら、黙々と剣の手入れをしている。
その隣で、風属性の盗賊シルヴィアがワインを傾け、
「今日こそ面白い依頼が来るといいわね」と気のない調子で笑う。
カウンターでは火属性の魔法使いマリーベルが、
小瓶の中の炎を弄びながら、眉をひそめていた。
「笑ってる場合? 昨日の夜、また教会で“石化事件”が起きたんだって」
水属性の僧侶アリアは、手の中の杯に祈りを落としながら小さく答える。
「……石になったのは、見習いの少年。儀式のあと、息をしていなかったそうです」
そのとき、扉の外で鈍い鐘が鳴った。
冬の海の冷気が吹き込み、酒場の炎が揺れる。
ゆっくりと入ってきたのは、一人の男――
痩せた頬に、深く沈む眼差し。
修道服の上に、黒い外套をまとっていた。
「探偵たちだな……。私の名は、エドワード。
ある修道院のことで、相談がある。」
エドワードは、兄を亡くしたと言った。
兄は敬虔な修道士で、聖堂の水浴儀式を司っていた。
その兄が死んだあと、エドワードは兄の妻――兄嫁マリアと結婚した。
そのために、村を追われ、信仰の道を閉ざされた。
「それでも私は……信じたかったんだ。
水が清めるのは、罪ではなく、人の痛みだと。」
彼の言葉は静かだった。だが、その奥に沈殿しているものは、
罪悪でも後悔でもなく――“信じることの重さ”だった。
司教クラウスからの依頼書が、机の上に置かれる。
そこには短くこう書かれていた。
> 『修道院において、水浴の儀式の後、若い見習い僧が石化した。
> 尼僧ミリエルに異端の疑いあり。調査を求む。』
マリーベルが書簡を火にかざすと、文字の裏に浮かぶように
**「清めよ、さもなくば汝は石となる」**の文句が現れた。
アリアは思わず杯を落とす。
「それは……昔の聖典の言葉。けれど、削除されたはずの章よ」
シルヴィアが眉を上げる。
「削除されたって? どうして?」
アリアは首を振る。
「“水”が信仰の象徴でありすぎて、
人を狂わせる儀式になってしまったの……。
神を信じるほど、人は“石”になる、と。」
四人は顔を見合わせた。
ライネルが重い声で言う。
「つまり、これは“信仰の呪い”ってわけか。」
その夜、彼らは修道院へ向かった。
丘の上に立つ白い建物――セリュート修道院。
静寂の中、鐘楼から落ちる水滴の音が響いていた。
修道院の中は、冷たく湿っていた。
回廊の壁には、聖女の彫像が並んでいる。
そのうちの一つが、不自然に新しい石でできていた。
マリーベルが指先で触れると、
石の肌は人間の皮膚のように、わずかに温かかった。
「これが……石化した“見習い”か。」
アリアが祈りを捧げると、
石像の目から、ひとしずくの水が落ちた。
それは涙のように床へ伝い、光を反射した。
その光の中に、小さな蟻が群がっていた。
ライネルが膝をつき、呟く。
「……蟻が、聖水を舐めている。」
蟻は列をなし、やがて聖壇の奥へ消えていく。
その先に、黒衣の影が立っていた。
尼僧――ミリエル。
彼女は微笑んでいた。
「探偵殿、ようこそ。神の沈黙を暴くおつもりですか?」
その声は澄んでいたが、どこか水の底で響くような不気味さを含んでいた。
夜が深まる。
修道院の聖水鉢に、月光が差し込む。
そこには再び、蟻が集まり始めていた。
その様子を見つめながら、エドワードは呟く。
「兄も……あの水の音に、取り憑かれていた。」
そして、四葉亭の仲間たちは気づく。
この事件は単なる呪いではない。
信仰という名の“重さ”が、人を石にしていく。
嫌な感情が、胸の奥から静かに湧き上がってくる――。
それは、恐怖でも憎悪でもない。
“信じることの代償”という名の、
ゆるやかな痛みだった。




