第0278話 また誰かが、間違える。また誰かが、それを赦す。
夜が明ける前に、雨のような音がした。
けれどそれは、雫ではなく、誰かが静かに杯を置く音だった。
酒場《四葉亭》の灯はまだ消えていない。
剣と法衣、ローブと短剣が、それぞれの席に静かに戻されていた。
「……終わったんだな」
低く呟いたのはライネルだった。
彼の鎧にはまだ、潜入の夜に刻まれた煤が残っていた。
あの“合言葉”の意味が解かれ、組織は瓦解し、依頼人は姿を消した。
ただ――残されたのは、誰の心にも残る“誤解”の影だった。
シルヴィアは、カウンターの上に足を投げ出し、
風のような笑みを浮かべる。
「合言葉って、やっぱり不便だね。
誰かを守るために言うはずの言葉が、
誰かを傷つける鍵にもなるんだから」
「……風は形を持たぬ。だからこそ、伝えられぬものがある」
ライネルは呟く。
その声には、過去に悪魔と交わした契約の名残――
“力のために真実を歪めた男”の響きが、まだ潜んでいた。
マリーベルが焔のように瞳を燃やしながら、
グラスの底をじっと見つめていた。
「怒りも……結局、誤解のひとつなんだよね。
本当は、誰かにわかってほしかっただけ。
でもその言葉が、燃えて形を変えちゃう」
火は灯として、そして災いとして彼女の中に揺れていた。
アリアは水を注ぎながら、
祈るように小さく笑った。
「人の心が濡れるのは、悪いことじゃないと思う。
乾いてしまえば、もう赦しは芽吹かないもの」
彼女の声は、雨の前触れのようにやわらかだった。
外では、誰も気づかぬうちに風が止み、
空の彼方に、ひと筋の光が差していた。
降るはずのない雨が――ゆっくりと、落ちてくる。
それは【逆・雨】。
天からではなく、地から立ちのぼるようにして、
街の石畳を濡らしていく。
まるで、地面が心を持ったかのように。
ライネルはその光景を見上げて、
深く息をついた。
「悪魔を斬ったつもりで、俺はずっと、
自分を斬っていたのかもしれない」
「それでも、今のあなたはちゃんと生きてるわ」
アリアの言葉は、水面に浮かぶ月のように静かだった。
シルヴィアが笑いながら杯を掲げる。
「じゃ、祝福の雨に乾杯ってことで」
マリーベルも無言で焔の灯をともす。
四人の影が、交錯しながらゆらぎ、やがて一つの形になる。
雨は、まだ続いていた。
誰かの涙のようでもあり、
赦しのしるしのようでもある。
“言葉”は誤解され続け、
それでも“意志”は届こうとする。
《四葉亭》の扉の向こうで、
新しい依頼の声がした。
また誰かが、間違える。
また誰かが、それを赦す。
――そうして世界は、少しずつ前に進む。
嫌な感情を抱えたまま、それを祝福に変えながら。




