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第0277話 “心に宿る影”を呼び出す契約の一節

 夜明け前の空は、灰色だった。

 雨雲の切れ間からのぞく微かな光が、瓦礫となった音楽院の屋根を照らしている。

 風の匂いは、鉄と灰、それに少しだけ、葡萄酒のような甘さを含んでいた。


 「これで……すべて終わったのか?」

 ライネルの問いに、アリアは首を振った。

 「“沈黙の楽団”は滅びても、誤解は残ります。

  言葉は、死なない。だから――終わりはないのです」


 その言葉に、シルヴィアが軽く笑う。

 「だったら、あたしたちの仕事も終わらないってことね。

  誰かが言い間違えるたびに、あたしたちはまた酒場に呼ばれる。

  なんて救いのない稼業かしら」

 風が吹き抜け、彼女の赤いマントを翻した。


 だがその時、静かに近づく足音があった。

 依頼人――レオン・クレーヴ。

 彼の目は深い疲労と、何かを悟ったような静けさを湛えていた。

 「あなた方には、感謝している。

  だが、ひとつだけ確かめたいことがある」

 「なんだ」

 「“アモール・カンタービレ”――あの言葉の本当の意味です。

  調べた記録には、こう書かれていた。

  『正しく発音した者は、己の悪魔を呼び覚ます』と」


 ライネルは眉をひそめた。

 「悪魔……?」

 「ええ。あの呪文はもともと、“心に宿る影”を呼び出す契約の一節だった。

  誤って唱えた者が死んだのではない。

  正しく唱えた者が、“自分自身を見てしまった”のです」


 その瞬間、全員の胸に寒気が走った。

 誤りを正そうとする意志。

 正確に伝えようとする善意。

 ――それこそが、悪魔を目覚めさせる。


 マリーベルが、火花のような声で言った。

 「つまり……“正しさ”が呪いの源だったってこと?」

 レオンは静かに頷いた。

 「私の部下も、正しい言葉を求めて死んだ。

  彼の生霊が私を責めたのは、私が間違いを許せなかったからだ」


 沈黙が落ちる。

 その重さに、四人の心が軋んだ。

 だが――ライネルはその中で、ふと微笑んだ。


 「なら、俺たちはどうすりゃいい。

  正しくも、間違ってもいけないんなら、

  何を信じて言葉を交わせばいい」


 「――“意志”です」

 アリアが答えた。

 「正しさではなく、意志。

  伝えようとする心の方を、神は見ておられます。

  言葉の形ではなく、意味の息づかいを信じなさい」


 そのとき、風が吹いた。

 シルヴィアが目を細め、空を見上げた。

 「ほら、ライネル。あんたの沈黙にも、ちゃんと風が通ったわよ」

 ライネルは頷き、静かに目を閉じた。

 かつて自らの沈黙が“生霊”を生んだ男の顔に、

 初めて、安らぎの色が差した。


 彼は言った。

 「俺は……言葉を信じてみる。

  間違っても、誰かを救える“誤解”があるとしたら――

  それは、きっと、希望ってやつだ」


 マリーベルが肩をすくめた。

 「相変わらず、泥臭い言い方ね。

  でも……悪くないわ」

 「ええ、悪くありません」

 アリアの微笑は、薄明の光に溶けていった。


 レオンは一歩退き、深く頭を下げた。

 「ありがとう。あなた方の“誤解”が、私を救った」

 そして彼は去っていった。

 その背に残る雨音は、まるで言葉のようにやさしく響いていた。


 ――雨が再び、降り出す。

 それは悲しみではなく、赦しの雨だった。

 “正しさ”という名の呪いを洗い流すように、

 街全体が、ゆっくりと音を取り戻していく。


 四葉亭の看板が、朝の光を受けて揺れた。

 風が鳴り、土が湿り、火が揺らめき、水が滴る。

 四つの属性が重なり、

 ひとつの調和が生まれる。


 ――それが、彼らの“成功の工夫”であり、

 言葉に潜む嫌な感情への、最も静かな反論だった。

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