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第0276話 “沈黙の楽団”

 雨は、止まなかった。

 夜を洗い流すはずのそれは、むしろ街全体を封じ込めるように降り続いていた。

 “沈黙の楽団”の拠点――王都南端、音楽院跡地。

 崩れかけた回廊の向こうで、

 ライネルたちは、もう一人のシルヴィアを先頭に、薄暗い礼拝堂へ足を踏み入れた。


 石床には、古い五線譜が刻まれていた。

 それぞれの線は血のような赤い絵具で引かれ、

 踏み間違えれば呪文が起動する仕掛けになっている。

 「ここが“発音の試練”……か」

 ライネルが唸る。

 沈黙を破るたび、どこかで音が鳴る。足音すら罠になる迷宮。


 「言葉ってのは、ほんと厄介ね」

 シルヴィア(本物)が、苦笑混じりに言った。

 「口を開けば誤解される。黙ってりゃ無視される。

  ……あたしたちはいったい、どこで正しい風を吹かせりゃいいのかしら」

 彼女の声に、もう一人の“偽シルヴィア”が重なる。

 「風はいつだって気まぐれ。

  でも、風が動かないと音は鳴らない。

  あなたが吹かねば、この歌は終わらないわ」


 ライネルは、二人の言葉の間に沈黙を挟んだ。

 沈黙――それこそが、彼自身の“嫌な感情”だった。

 過去に命を奪った仲間の名を呼べず、

 怒りの代わりに黙ることを選んだ、その暗い土の心。

 「俺の沈黙が……誰かを殺してきたのかもしれんな」

 「違うよ」アリアが言った。

 「沈黙は、祈りの形にもなる。

  でも、祈りが長すぎれば、届く声も腐るのです」


 その時、五線譜の中心が赤く光った。

 礼拝堂の壁から、ゆっくりと何かが剥がれ出す。

 黒い霧が人の形を取り、

 やがて――“ライネル自身”と同じ顔をした男が立っていた。

 「お前は……誰だ」

 「お前だ」

 その声は、低く、濡れた土の中から響くようだった。

 「沈黙を選んだ、お前の“もう一つの意志”だ。

  言葉を恐れ、誤解を避け、何も伝えずに済ませようとするお前自身――

  俺が、生霊だ」


 マリーベルが火を灯した。

 炎が踊り、影がゆらぐ。

 「これが……言葉の代償? 間違いの果て?」

 「違う。これは、“伝えようとしなかった”ことの罰よ」

 アリアの声が震えていた。

 僧侶である彼女は、言葉の聖性を信じていた。

 だが今、言葉は信仰をも喰らう化け物になっていた。


 生霊のライネルは、ゆっくりと手を伸ばす。

 「お前が黙るたび、俺は強くなる。

  お前が何も言わないたび、誤解は育つ。

  それが、お前の築いた世界だ」


 「やめろ!」

 マリーベルの叫びとともに、火の柱が立ちのぼった。

 だが炎は、空気を掴むように空を焼くだけだった。

 その刹那、風が逆流する。

 シルヴィア(本物)が、偽の自分を抱きとめたのだ。

 「いい? “言い間違い”ってのは、誰かが聞いてくれるから起こるの。

  あたしがもう一度、間違えてやる――あんたを、止めるために」


 彼女は唇を震わせ、呪文を唱えた。

 「アモール……カンタリーベ」

 ――一音だけ、違う。

 だがそれこそが鍵だった。

 礼拝堂の五線譜が白く光り、赤い線が消える。

 間違いを赦す音が、空間を満たした。


 雨が止んだ。

 外の鐘楼が、静かに鳴り始める。

 偽のシルヴィアが微笑んだ。

 「あなた、やっと“風”になれたのね」

 その身体は透明にほどけ、消えていった。


 ライネルは膝をつき、拳を握りしめた。

 「……誤りを正すことが、すべてじゃない。

  時に、誤りを“抱く”ことが、赦しになるんだな」

 アリアが頷く。

 「神もまた、私たちの言い間違いを聞いて笑っているかもしれません。

  正確さより、届く想いを信じたい――今は、そう思います」


 マリーベルが肩で息をして言った。

 「まったく、どいつもこいつも……回りくどい言葉ばっかりね」

 だがその口調には、いつもの怒りではなく、

 かすかな安堵が混じっていた。


 四人は外へ出た。

 曇った空の下、濡れた石畳に四つの影が並ぶ。

 “沈黙の楽団”の本拠は崩れ、歌声は途絶えていた。

 だが遠くのどこかで、

 誰かが――まだその歌を口ずさんでいるような気がした。

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