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第0275話 “アモール・カンタービレ”

 夜のとばりが、石畳の路地をすっかり包みこんでいた。

 雨はまだ降りそうで降らない。湿った風が「四葉亭」の扉を、何度も微かに揺らす。

 ライネルは重い鎧を脱ぎ、卓の上に置かれた銀の杯を見つめていた。中の葡萄酒は、光を失っている。

 その色は、沈黙の合言葉のように、言えぬままの真実を秘めていた。


 「……つまり、あの言葉を口にした者が次々と消えている、ってことか?」

 低くうなるようにライネルが問うと、

 対面に座るシルヴィアが、ワイングラスの縁を指でなぞりながら頷いた。

 「そう。“アモール・カンタービレ”。愛は歌う、って意味の古い呪文よ。でも、その響きを違えて口にした者は――生きて戻らない」


 「呪文が、合言葉になってるってわけね」

 火属性の魔法使いマリーベルが、苛立ったように髪をかき上げた。

 「まるで悪趣味な歌遊びだわ。どんな組織がそんな暗号を使うの?」

 「“沈黙の楽団”。密輸と暗殺を手がける、音楽師を装った犯罪集団さ」

 アリアが囁く声は、まるで祈りの終わりのように静かだった。

 「その“誤った音”が、人を殺すのです。正確に言葉を伝えることが、いかに難しいか……」


 その瞬間、扉がひらいた。

 雨の匂いとともに、黒い外套をまとった依頼人が現れた。

 「あなた方が“探りトレイサー”の四葉組か?」

 低い声。だが、どこか震えていた。

 彼の名はレオン・クレーヴ。王都警察の密偵であり、潜入任務の途中で仲間を失ったという。


 「私の部下が、“アモール・カンタービレ”の合言葉を誤って口にしたんです。

  それ以来……あの声が、夜ごとに私を呼ぶ。生霊のような、低い声で。

  “もう一度、正しく言って”と。」


 アリアが小さく息を呑んだ。

 「つまり、言葉そのものが“呪縛”になっている……」

 「ええ。私は、確かめたいんです。

  その“間違い”が、ただの発音の問題なのか――それとも、何かを封じていたのか」


 ライネルは黙って依頼人を見つめていた。

 沈黙の奥に、かすかな怒りと罪悪感が混ざっている。

 兄の仇を討つという言葉が、遠いどこかで反転して響く。

 「誤解が人を殺すなら、正確さは刃になる。だが……その刃は、誰のために振るう?」


 四人は“沈黙の楽団”への潜入を決める。

 だが、そこにはもう一人の探偵がいた。

 彼女は風のように軽やかに名乗った――

 「名前はシルヴィア。……でもね、たぶんあなたたちが知ってる“シルヴィア”とは、違うわ」


 全員が息をのむ。

 ライネルの隣に座る“本物のシルヴィア”が、声を失っていた。

 目の前の“もう一人のシルヴィア”は、同じ声、同じ顔をしている。

 「言葉がずれると、意味が変わる。

  意味が変わると、存在もずれる。

  ――そう教えてくれたのは、あの《悪魔》よ」


 冷たい風が酒場を抜けた。

 蝋燭の炎が揺れ、二人のシルヴィアの影が重なり、

 ひとつの形を作り出す。それは、生霊の輪郭だった。


 マリーベルが叫ぶ。

 「嘘よ、こんなの! 同じ人間が二人なんて――」

 「違うわ」

 アリアが立ち上がり、胸の前で印を組む。

 「これは、言葉が具現化した“誤解”です。

  ――言葉を正そうとするたびに、もう一つの存在が生まれる」


 ライネルは剣を抜き、光の中で呟いた。

 「なら、俺たちの敵は“言い間違い”そのものだな」

 「違う」

 依頼人レオンが答える。

 「敵は、沈黙だ。

  正しい言葉を伝えようとする意志が、いつしか恐れに変わる。

  その恐れが、俺たちを黙らせる」


 外ではついに雨が降り出した。

 屋根を打つ音が、まるでリズムのように聞こえる。

 ――“アモール・カンタービレ”。

 その旋律が、街のどこかで囁かれ、誰かがまた誤って唱える。


 ライネルは剣を鞘に納め、静かに言った。

 「行こう。

  誤りの連鎖を、止めるために。

  そして……正しい沈黙を取り戻すために。」


 雨の中、四葉亭の扉が閉まる。

 その向こうに広がるのは、言葉と意志が交錯する“迷宮”。

 そこでは、どんな真実も、正しく伝えることはできない――。

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