第0274話 もし、本当に“声を奪う悪魔”がいるとしたら
夜の街は、息を潜めていた。
雨は細く、糸のように垂れている。
石畳を踏むたび、水面が波紋を描き、音もなく消えていった。
ライネルたち四人は、王都の北端にある廃劇場――《蛇の舌》の根城へ向かっていた。
劇場はかつて、王立の祝祭を開いた場所だったという。だが、今では扉も窓も打ち付けられ、沈黙の館と化していた。
ひとたび外界の音を閉ざせば、そこは“死者の声”だけが響く世界だった。
「この中に、“言葉を奪われた者”たちがいるのね……?」
アリアが、冷たい息を吐くように言った。
「“言葉を奪う”って……どういう仕組みなんだろうな。」
シルヴィアが肩をすくめ、闇を覗く。
「心臓を抜くとか、魂を縫いとめるとか、そういう呪術かもね。」
「そんな冗談、笑えないわよ」
マリーベルの声が、乾いて響いた。
ライネルは答えない。ただ手を上げて合図を送り、皆に前進を促す。
扉を開くと、湿った空気と、古い楽器の匂いが漂った。
劇場の内部は闇のように広い。壁には、破れた幕と焦げたポスターが掛かっている。
中央に、ひとつの舞台。
舞台の上には、仮面をつけた者たちが円を描いていた。
彼らは、声を持たなかった。
代わりに、指で文字を描く。
だが、その文字は――意味をなしていない。
線が交わり、ほどけ、再び絡み、まるで誰かの“思考の迷路”のように見えた。
その中央に、ひとりの男が立っていた。
長い黒衣。仮面の口元には、蛇の文様。
彼こそが《蛇の舌》の首領――と呼ばれる存在だった。
シルヴィアが囁く。
「喋れないってことは……命令もできないの?」
「いや、している」とライネル。
「“声を奪う”のではない。“声で命令する”のだ」
「え?」
「誰かが、代わりに“語っている”。」
その時、背後で微かな声がした。
「……つきが、かけたよるに……ひとが、わらう……」
それは前夜の声と、同じだった。
だが、今度は確かに、舞台の下から響いてくる。
アリアが震えた。
「カミル……?」
舞台の床が軋み、板の隙間から、白い指が伸びた。
マリーベルが咄嗟に炎を放つ。
赤い光の中で、影が浮かび上がった。
男の顔――カミルの顔だった。
だが、その瞳には、生の光がなかった。
彼は微笑んでいた。
笑っているのに、声が出ない。
その口元だけが、何度も繰り返す。
「ひとが、わらう。ひとが、わらう……」
その光景に、ライネルの胸が凍りついた。
死者が、笑っている。
それは“声のない笑い”――まるで沈黙そのものが、嘲笑っているかのようだった。
マリーベルが怒りを爆発させる。
「こんなふざけた真似、誰がしてるの!?」
炎が舞台を照らし、仮面の群れが後ずさる。
だが、彼らの影から、別の影が現れた。
それは、黒衣の首領だった。
仮面の奥で、唇が動いた。
ライネルは聞き取った。
「沈黙こそ、最も雄弁な言葉だ。」
その瞬間、劇場全体が震えた。
壁に刻まれていた“口”たちが一斉に開き、囁く。
「しゃべるな。しゃべるな。しゃべるな――」
言葉が刃となって飛ぶ。
アリアが叫びを上げ、聖印を掲げる。
青白い光が、闇を押し返す。
「神は、沈黙の中にいません!」
ライネルは剣を抜いた。
土色の光が刃を走る。
「沈黙を信仰にする者は、いつか自分を喰う。」
剣が仮面を割った。
中から覗いたのは――カミルと同じ顔。
ひとつではなく、いくつも。
どの顔も、彼と同じ声で囁いていた。
「ひとが、わらう。ひとが、わらう。」
シルヴィアが小さく呟いた。
「……これ、全部、聞き間違えの呪い?」
「そうだ」とライネルが応じた。
「言葉を繰り返すたび、意味が崩れていく。
本当の“蛇の舌”は――言葉を歪める悪魔だ。」
その瞬間、彼の耳に、あの声が蘇る。
『おまえの沈黙は、誰を守るためのものだ?』
足元の影が、ぬるりと伸びた。
カミルの生霊が、彼の手を掴む。
冷たい。だが、その指は懺悔を求めるようだった。
「……兄さん、助けて……」
ライネルは息を呑んだ。
「兄……?」
マリーベルが振り返る。
「つまり――カミルの兄が、この組織の本当の頭?」
「まだ断定はできない。でも、“逆の復讐”なら、あり得る」
彼の瞳が、土の底のように暗く光った。
「弟が兄を討ったのではない。兄が“弟の声”を奪ったのだ。」
雨音が、再び屋根を打ち始める。
アリアは震える声で祈った。
「どうか、この誤解の輪が、終わりますように……」
マリーベルが立ち上がり、炎を収めた。
「誤解って言葉で済むなら、呪いなんていらないわ」
シルヴィアが息を吐く。
「いや、誤解こそがいちばん強い呪いさ。
だって、誰もそれを“呪い”だと思ってない。」
ライネルは剣を鞘に納め、静かに言った。
「行こう。……この沈黙の中に、まだ“真の依頼人”がいる。」
舞台の奥の扉が、ひとりでに開いた。
冷たい風が吹き抜け、蝋燭が揺れる。
そこに、ひとつの言葉が刻まれていた。
【沈黙を破る者、罪を背負う】
外に出ると、雨がいっそう激しくなっていた。
だが、ライネルの心には別の雨が降っていた。
それは“自分の内に潜む悪魔”――言葉を選ばなかった罪の雨。
シルヴィアが隣で言った。
「ねえライネル。もし、本当に“声を奪う悪魔”がいるとしたら、
あんたはどうする?」
ライネルは空を見上げた。
「……その声を、取り戻す。たとえ、俺の命を代償にしても。」
風が吹き抜けた。
四葉亭の探偵たちは、再び沈黙の中へと歩み出す。
雨が、街灯の光を滲ませる。
その向こうに、次なる“影の依頼人”が、待っていた。




