第0273話 おまえの沈黙は、誰を守るためのものだ?
夜が、沈んでいた。
街灯の代わりに灯る油ランプの光が、雨を縫うように揺れている。町の裏通り――そのもっとも古びた石畳の上に、小さな看板が吊るされていた。
《酒場 四葉亭》
風が、看板を揺らす。軋んだ鎖の音が、どこか遠くで笑う蛇のようだった。
扉を押し開けた瞬間、湿った空気が流れ込む。煤けた木の香りと、燻るような香草の匂い。そこに、四人の影があった。
土の騎士、ライネル。
その背は大きく、しかし影は静かだった。鎧の継ぎ目からは、かつての戦場の傷跡が覗いている。彼はカウンターの奥で、古びたグラスを拭きながら黙して動かぬ石のように座っていた。
口を開くことは滅多にない。必要なことは、視線か、指先の合図で済ませる。
対照的に、明るく軽い声が響いた。
「ねぇライネル、あんた、グラス拭くだけで給料もらってるわけ?」
シルヴィア。風の女盗賊。
机に足を乗せ、葡萄酒の瓶を逆さにしては、指先で回している。
「……喋るより、磨く方が落ち着く」
ようやく漏れたライネルの声は、低く湿った土音だった。
彼女は笑って肩をすくめる。
「言葉少なすぎて、墓石みたいだね。……ま、嫌いじゃないけど」
火の魔法使い、マリーベルが椅子を蹴って立ち上がった。
赤い外套が揺れ、火の粉が散るように彼女の髪が光る。
「二人とも静かにしてよ! 客が来るかもしれないでしょ!」
「来ないって。こんな雨の日にさ」
「来るの。……今日の風向き、悪い感じがする」
そのやりとりを、隣で祈るように両手を組む水の僧侶アリアが見守っていた。
「風が悪い時こそ、神は人を試すのです。……ね、ライネル?」
彼は短く頷いた。
その沈黙の間に、扉の外で音がした。
ノックではなく、叩くでもない。――三度の「間」があった。
トントン、
……間。
トン。
ライネルが目を細める。
それはこの街で、秘密の依頼を持つ者だけが知る合図だった。
入ってきたのは、黒いマントを羽織った男。
帽子の縁から滴る雨粒が、まるで血のように落ちる。
男は低い声で言った。
「“月が欠けた夜に、蛇は笑う”。」
その言葉を聞いた瞬間、シルヴィアが眉を上げる。
「“人が笑う”じゃなくて?」
男は一瞬、目を光らせた。
「……違う。“蛇”だ。」
「へえ、細かいこと気にするんだな。あたし、聞き間違えたかも」
その小さな言い違いが、後のすべての始まりだった。
男は、王都警察の密偵だと名乗った。名をカミル。
彼の話はこうだ。
近頃、王都の地下で密売を繰り返す組織《蛇の舌》が活動を再開した。
警察の一員である彼の“仲間”が、内部潜入中に行方不明になった。
「仲間を探してほしい。……その代わり、報酬は“秘密”だ」
「秘密って?」とマリーベル。
「“王家の口封じ”さ」
ライネルは微動だにしない。
シルヴィアが身を乗り出し、アリアが心配そうに手を胸にあてる。
「王家の、口封じ?」
「ええ。言葉一つで命を落とす――そんなことが、いま、王都では起きている」
男の声は低く、濡れた布のように重かった。
雨音が、強くなった。
誰もが言葉を失う中、ライネルだけが静かに立ち上がった。
「……引き受けよう」
その声には、何かを抑え込むような苦みがあった。
依頼を受けた夜。
四葉亭の裏部屋では、風と火と水が、言葉を交わしていた。
「“蛇が笑う”だっけ、“人が笑う”だっけ? どっち?」
「どっちでもいいでしょ。意味は通じるわ」
「通じないよ」とアリアが首を振る。
「“蛇”と“人”では、祈りの向かう先が違う。言葉には、魂があるの」
マリーベルは笑い飛ばした。
「魂? そんなもの、燃やせばみんな同じ灰になるでしょ」
シルヴィアが肩をすくめる。
「あんたはいつもそう。言葉より火が先なんだ」
その時、ライネルの声が割って入った。
「……言葉は、火よりも怖い」
彼は窓の外を見つめていた。
雨が闇を縫い、遠くで雷が鳴る。
その音に、誰も返す言葉を持たなかった。
翌朝、四人は王都の下層区へ向かった。
そこには、《蛇の舌》が根を張る古い劇場跡があるという。
ライネルは沈黙のまま先を歩く。
シルヴィアは軽口を叩きながらも、目は真剣だった。
マリーベルは炎の杖を背負い、アリアは小さな銀の聖印を握りしめる。
劇場の地下へ降りると、空気が一変した。
埃と、鉄のような匂い。
そこに、奇妙な声が響いた。
「……つきが、かけたよるに……ひとが、わらう……」
それは誰かの呟き。
暗闇の奥に、影があった。
男の姿。だが、その顔には、生の光がなかった。
「……カミル?」アリアが囁く。
その名を呼ぶと、影は崩れ落ちるように振り向いた。
唇だけが動く。
「“蛇”じゃない。“人”だ。」
その瞬間、炎が走り、風が巻き、闇が裂けた。
地下の壁に刻まれていたのは――無数の口。
それぞれが違う言葉を、同時に呟いている。
ライネルは呟いた。
「言葉が……呪いになっている。」
雨音が遠くから聞こえる。
誰もがその場に立ち尽くした。
その空間に漂うのは、“誤解の臭気”――。
言葉が、人を繋ぐ代わりに、引き裂くものになる瞬間だった。
シルヴィアは震える声で言った。
「ねぇライネル……もし、“蛇”と“人”を聞き違えてたのが、あたしだったら……どうする?」
ライネルは振り向かずに答えた。
「……その時は、“俺が間違えた”と言う。」
彼の沈黙には、赦しがあった。
しかし同時に、それは罪の告白でもあった。
その夜、四葉亭に戻った四人は、暖炉を囲んで座った。
炎の音だけが聞こえる。
ライネルの心に、かつての契約の声が蘇る。
「おまえの沈黙は、誰を守るためのものだ?」
外では、まだ雨が降っていた。
窓を叩く音が、まるで悪魔が扉を叩くように響く。
ライネルはゆっくりと目を閉じた。
――嫌な感情が、湧いてくる。
自分の沈黙が、誰かの言葉を奪ったかもしれないという恐れ。
しかし、それでも彼は決して声を荒げなかった。
沈黙こそが、彼に課せられた枷だったから。
そしてその枷が、いま再び音を立てて軋みはじめる。
“蛇”と“人”、ただ一つの言葉の違いが、
四葉亭の探偵たちを、地獄のような真実へと導いていく。




