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第0271話 赦しを得られぬ者こそ、愛の形を知っているのかもしれないわ

 朝靄が丘を包んでいた。

 夜露を含んだ風が、石像の頬をなぞる。

 触れた指先に、まだ温もりが残っている気がした。

 それは生の記憶か、あるいは死の余韻か――誰にも確かめられない。


 〈四葉亭〉の扉を押し開け、アリアは外の光に目を細めた。

 墓地の丘のほうで、白い鳥が二羽、輪を描いて飛んでいる。

 静寂の中に、確かなものがひとつだけある。

 ――彼らが、いまも互いを見つめているということ。


 「ねえ、マリーベル。あの石像、夜ごとに位置を変えるって噂、聞いた?」

 風のように軽やかな声が、店の奥から響いた。シルヴィアだ。

 彼女はカウンターの上でナイフを回しながら、片目を細める。

 「騎士が女を抱くように少しずつ動くんだってさ。可笑しいでしょ?」

 「可笑しくなんかないわ」

 アリアは微笑んだ。

 「愛って、そういうものだから」


 火の精のようなマリーベルは、まだ納得できない様子で腕を組む。

 「でも、結局何も変わらないじゃない。死んで、石になって、そこで終わり」

 「終わり、ね」

 ライネルの声がした――ような気がした。

 アリアは振り向いたが、誰もいなかった。

 ただ、陽光の粒が棚の上の酒瓶に跳ね、琥珀色の閃きを放っていた。


 「終わりじゃない。止まることこそ、始まりなの」

 アリアの言葉は、静かに空気に溶けた。

 「石は永遠の祈り。動かないようでいて、すべてを覚えている。愛の痛みも、赦されぬ願いも、ひとつ残らず」


 そのとき、扉が開き、見知らぬ客が現れた。

 黒い外套をまとった男。

 その腕には、古びた鉄槌が下がっている。

 「……依頼がある」

 声は低く、湿った土の匂いを帯びていた。


 マリーベルが眉を上げる。

 「また死人絡み?」

 男は頷いた。

 「死者の声を聞く者を探している」

 シルヴィアが軽く笑った。

 「死者の声? あいにく、うちは幽霊専門じゃないの」

 「けれど」

 アリアが遮る。

 「ときどき、死者は風に乗って語るわ。あなた、今朝あの丘を通った?」

 男は目を伏せ、しばらく沈黙した。

 「……ああ。石像が、泣いていた」


 その言葉に、誰も笑わなかった。

 マリーベルの瞳に、火がともる。

 「泣く石、ね。いいわ、調べてやる」

 シルヴィアが肩をすくめる。

 「まったく、また厄介ごとを引き受けて……」


 だが、ライネルがいない。

 アリアはカウンターの上のグラスを見つめながら、呟いた。

 「この依頼、彼が生きていたら、きっと受けてたでしょうね」

 「……生きてるわよ」

 風の隙間に、シルヴィアが囁く。

 「石の中で、あの人、まだ考えてる。“赦し”ってなんだったのか、って」


 外では風が鳴った。

 丘の上の石像たちが、その風にほんのわずか動いたように見えた。

 女の石の指先が、騎士の頬に触れる。

 男の石の瞳が、光を映す。

 動かぬ祈りが、確かに息づいていた。


 アリアがそっと目を閉じた。

 「赦しを得られぬ者こそ、愛の形を知っているのかもしれないわ」

 「じゃあ、あの二人は――」

 マリーベルが言いかける。

 「――そう、いまも祈ってるの」

 アリアが微笑む。

 「生きている者のために」


 沈黙が〈四葉亭〉を包んだ。

 その沈黙は、悲しみではなく、祈りのように柔らかかった。

 誰もが気づいていた。

 嫌な感情――罪、嫉妬、後悔、赦されぬ愛。

 それらすべてが、石に変わる前の熱を宿していたことを。


 外では鐘が鳴る。

 天と地の境界で、風がひとつの言葉を運んでくる。

 ――「ありがとう」


 それは誰の声でもあり、誰のものでもなかった。

 けれど、確かに〈四葉亭〉の四人は、それを聞いた。


 ライネルは土に帰り、

 リサは光に還り、

 残された者たちは、なおこの世の混沌の中で、

 愛と死の境界を行き来しながら――

 “赦し”という名の、永遠の仕事を続けていくのだった。

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