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第0270話 風が吹いたら、また会えるかもね

 その夜、〈四葉亭〉には風が入らなかった。

 硝子窓を揺らすほどの強い嵐のあと、すべての葉が落ち、街の明かりは泥に埋もれ、外の世界が沈黙に閉ざされたようだった。

 暖炉の火は音を立てず、まるで息を潜めるように燃えている。

 カウンターの奥では、風属性の盗賊シルヴィアが椅子の背に脚をかけ、薄い酒をすすっていた。彼女の目は笑っていたが、その瞳の奥にはひとすじ、焦げた夜のような影が見えた。


 「ねえ、ライネル。あの依頼人の“女”、本当に死んでるのかしら」

 「死んでいなければ、あの穴は何だったんだ」

 土属性の騎士ライネルが低く答えた。硬い声。鎧の内側で心臓の鼓動が金属に反響する。

 「死者が通る穴。天上へ通ずる道か、地の底へ落ちる井戸か。――どちらにせよ、生者の足で覗くべき場所じゃない」

 「けど、彼女の遺体がないのよ?」

 シルヴィアの唇がわずかに笑みの形を描く。

 「なら、生者のまま通ったんじゃない?」


 その会話に、火属性の魔法使いマリーベルが乱暴にカップを置いた。

 「そんな詭弁、聞き飽きた。死人は帰らない。それが法則でしょ。神でも悪魔でも、破れない掟がある」

 「掟を破るために生きてるんでしょう? あなたみたいな人は」

 シルヴィアが挑発する。風が酒場の中でぶつかり合う。

 その空気の裂け目に、ライネルが沈むように息を吐いた。

 ――沈黙。それは、彼の思考が石に変わる予兆でもあった。


 水属性の僧侶アリアが、卓上の杯を両手で包みながら静かに言った。

 「……ねえ、あなたたち。もし“死者の穴”が、赦しを得られない者のために開かれるものだとしたら?」

 「赦し?」

 マリーベルが鼻で笑う。

 「死んだ人間に赦しなんているの?」

 「いるわ。だって、あの女――リサ――は生きたまま“死”に行った。あれは逃避じゃない、贖罪だった。彼女が犯した罪の形が、“石”になることだったの」


 風が止み、ライネルの心臓が止まるほどの沈黙が訪れた。

 石。

 彼女が石になる。

 あの夜、彼女の手のひらに触れたときの、冷たい湿りを思い出す。

 それはもう、生き物の温度ではなかった。


 ライネルは立ち上がった。椅子が床を引っかく音が、あまりに鋭く響く。

 「……俺が確かめに行く。死者の穴が“死”に通じるのか、“赦し”に通じるのか」

 「待ちなさい、ライネル」アリアの声が水のように柔らかく割り込む。

 「あなたが行けば、戻れない。地の者は天を見られないものよ」

 「俺は地の者だ。土は沈む。だが、沈んでも掘れる」


 彼は剣を取った。

 その刃には、幾度の祈りと呪いがこびりついている。

 かつて、主君を守れず、仇を討てず、愛した女を石に変えてしまった――その過去の痛みが、彼の手の震えを止めた。


 〈四葉亭〉を出ると、夜風が荒野を吹き抜けていた。

 黒い雲の下、死者の穴は、墓地の丘の先にぽっかりと開いている。

 灯を持たずとも見えるほど、闇が深い。

 彼はその縁に立ち、剣を握り締めた。


 「……おまえを、もう一度、殺す」


 それは祈りだった。愛する者を救うための、最も悲しい祈り。

 だが、闇の底から現れたのは――人影だった。

 彼女が、いた。

 リサ。

 薄布の衣をまとい、肌はすでに大理石のように白く、瞳の中に光を映さない。

 「来たのね、ライネル」

 その声は、風の音に似ていた。触れれば崩れ、聞けば溶ける。

 「俺は……おまえを取り戻しに来た」

 「もう、戻れないの」

 彼女は微笑んだ。その笑みが、最初で最後の赦しの形だった。


 ライネルは剣を構えた。だがその刃が振り下ろされる前に、リサの指先が彼の頬に触れた。

 ――冷たい。

 その冷たさは、剣よりも鋭く、祈りよりも深かった。


 「ねえ、ライネル。あなた、まだ“赦し”を知らないのね」

 「赦しなんて、いらない。俺は……罰を受けたいだけだ」

 「なら、私を殺して」

 「できない」

 「じゃあ、あなたが石になって」


 リサの声とともに、風が裂けた。

 ライネルの身体が、重く、冷たく、固くなっていく。

 石が皮膚を覆い、指先から心臓へと伝う。

 ――だがその瞬間、天上の裂け目から光が射した。


 彼は、見た。

 天か、地か、区別のない白の中に、四つの影があった。

 シルヴィア、マリーベル、アリア――そして、もうひとつ。

 “彼女”の影が、微笑んでいた。

 石化する身体の奥で、彼は悟る。

 これは罰ではなく、赦しなのだと。

 “動けぬ者”となることで、愛の痛みから解放される――。


 やがて、風も止んだ。

 リサは彼の頬に唇を寄せ、その涙を舐めるように受け止めた。

 そして、囁いた。

 「ありがとう。私の死を、見届けてくれて」


 ――その夜、墓地の丘には二つの石像が並んだ。

 ひとつは剣を抱く騎士。

 もうひとつは、その頬に手を伸ばす女。


 翌朝、〈四葉亭〉の窓辺で、アリアが静かに祈りを捧げていた。

 「彼らが、天に行けますように」

 シルヴィアは、黙って杯を置いた。

 「天も地も、もう同じ場所かもね」


 マリーベルがため息をつく。

 「結局、あの人たちは、嫌な感情を超えられなかったのかもしれない」

 アリアが首を振る。

 「いいえ。超えるのではなく、抱いたまま沈んでいったの。だからこそ、石は美しいのよ」


 その言葉に、シルヴィアが小さく笑った。

 「風が吹いたら、また会えるかもね」

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