第0027話 灰色の王
将軍の言葉が静まり、店内の空気がぴんと張り詰めた。
焔のきらめきも、杯の傾きも、ただ次の一言を待つかのように動きを止める。
「……北境の渓谷を越えた先に、《灰色の王》と呼ばれる古の怪物が蠢いておる」
老将は酒気を帯びぬ硬い声で続けた。
兵士として幾百の戦場を渡り歩いた者の声音には、虚飾も迷信も混じっていない。
「かつて王国を滅びに追いやりかけた存在だ。封印は千年を経てほころび、いまや影の軍勢が再び地上に歩み始めておる」
ざわめきが走る。
冒険者たちは顔を見合わせた。古代の魔物――それは伝説や絵巻物の中の話であり、現実の依頼ではない。だが将軍の目に冗談の色はなく、背後の兵たちも剣の柄を強く握っている。
店主アシュレイはしばし沈黙したのち、深いため息をついた。
彼女は決して臆病ではないが、酒場の屋根より大きな敵を前に、軽口を叩く気にはなれなかった。
「……それが、なぜうちの店に?」
「四元素の杯よ」
将軍の眼がぎらりと光った。
酒場の奥、棚の最上段に飾られた四つの古器――火・水・風・土を象徴する杯。
装飾品に見えるそれらは、じつは古代の術式を封じ込めた媒介具であり、王都の学士たちですら手に負えぬ秘宝だった。
「伝承によれば、あの怪物を退けるには四元素の力を束ねねばならぬ。その器が、ここに揃っているのだ」
客席にどよめきが広がる。
常連たちも旅の剣士も、皆が棚を振り仰ぎ、あらためて杯を見直した。
それは酒場の名の由来であり、誇りであり、だが同時にいまや、戦争の鍵そのものになろうとしていた。
「待ってよ、将軍様」
赤毛の傭兵が声をあげる。
「俺たちはただ飲みに来ただけだ。なんで伝説の怪物退治に首を突っ込まなきゃなんねえ?」
「だが他に、器を扱える場はない」
将軍は静かに答えた。
「杯を繋ぎ、元素を統べる――それは酒場を営み、日々炎と水と風と土に触れてきた者にしかできぬ技だと古文に記されている」
アシュレイの手が、無意識に酒瓶の口を拭う布をきゅっと握った。
確かに彼女は、毎夜の調合と給仕の中で杯の性質を感覚的に把握していた。火の杯は酒精を燃やし、水の杯は香りを和らげ、風の杯は音を澄ませ、土の杯は身体を満たす。
だがそれが、怪物を討つ力に結びつくなど想像したこともなかった。
「……責任が、重すぎる」
低くつぶやいた声は、誰に向けたものでもなかった。
将軍は、彼女の迷いを正面から見据えた。
「承知しておる。だが国は、民は、いま崩れ落ちようとしている。――どうか、力を貸してはもらえぬか」
その瞬間、酒場の灯火が小さく揺らめいた。
火の杯が、ひとりでに赤く瞬いたように見えたのは、気のせいだったのか。




