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第0269話 愛の裏側にある出口

 風はいつも、地下の匂いを運んでくる。

 鉄の味、乾いた血、湿った砂の底で溜まる、誰かの呼吸の残骸。

 その穴の前に立つと、あたかも時が二つに割れて、過去と未来のあわいに私は浮かんでいるような気がした。


 死者が穴を通って天上界あるいは地下界へ行く――そんな噂を、私は笑い飛ばしていたはずだった。

 だが、今はもう笑えない。

 その穴は、確かに呼吸していた。

 風を吸い込み、吐き出すたび、どこか遠くで鐘が鳴るような低い響きを返す。

 まるで、地の底に眠る誰かが、言葉を取り戻そうとしているかのように。


 私はランプを灯し、穴の縁に膝をつく。

 周囲には、誰もいない。

 死者の穴は森の奥深く、失われた集落の墓地のさらに裏手に口を開けている。

 天気は悪くなりかけていて、雨の匂いが風に混じっている。

 夜が落ちる前に、確かめなければならない。

 この穴の中に、あの人の“痕跡”があるのか――。


 私は縄を巻きつけ、ランタンを胸元に抱きながら、ゆっくりと身を滑らせていく。

 湿気の多い空気が肌にまとわりつく。

 下へ行くほど、音が変わる。

 上では風の唸りだったのが、次第に水滴の音に変わり、やがてそれも消える。

 ――音のない場所。

 そこにたどり着いたとき、私は呼吸を止めてしまった。


 地底の壁には、文字が刻まれている。

 それは古代の呪文のようでもあり、祈りの断片のようでもあった。

 〈戻れぬ者はここで待つ〉

 〈声を棄てた者は名を得る〉

 〈穴は愛の形をしている〉


 私は無意識に、その最後の一文に触れる。

 愛の形――。

 それは、なぜか胸の奥に痛みを残した。

 あの人と過ごした雨宿りの夜、彼が微笑んで言った言葉が蘇る。

 「死は、愛の反対じゃない。愛の裏側にある、もうひとつの出口なんだ。」


 出口。

 それがこの穴のことなのか?

 私は壁の裏を探るように指でなぞりながら、冷たい石の感触を確かめた。

 すると、指先にわずかな空洞があった。

 中には、小さな銀の鈴。

 埃と土にまみれてはいるが、形はまだ保たれている。

 私はそっとそれを取り出し、布で拭う。

 ――音が鳴らない。

 鈴の中には、何もない。

 中空。

 それはまるで、死者の喉のようだった。


 ふと、背後で足音がした。

 振り返ると、誰もいない。

 ただ、穴の奥から、低い囁きが聞こえる。

 それは、名前を呼ぶ声のようでもあり、雨の滴が石に落ちる音のようでもある。

 「……帰れ……帰れ……」

 私は息を呑む。

 その声は、明らかに“あの人”のものだった。

 死者の穴が、彼の声を模しているのか。

 それとも、本当に彼がそこにいるのか。


 私は問いかける。

 「あなたは、まだここにいるの?」

 返ってきたのは、沈黙。

 しかし、その沈黙がひどく柔らかく、懐かしかった。

 ――まるで、愛の返事のように。


 地上に戻ると、雨が降り出していた。

 冷たい雨の下で、私は鈴を見つめながら思う。

 死者とは、完全な不在なのだろうか。

 それとも、私たちの“感情”が、死の形を決めるのだろうか。

 嫌悪、悲しみ、未練――それらを抱いたままでは、死者もまた行き場を失うのではないか。


 私は傘もささず、墓地を歩いた。

 足元の泥が、静かに私の靴を飲み込んでいく。

 墓石のひとつに、あの人の名前が刻まれている。

 けれど、私にはそれがまだ信じられなかった。

 “死”が“完結”ではないように、

 “嫌な感情”もまた、未完成の問いなのかもしれない。


 夜、私は宿に戻り、記録帳を開く。

 死者の穴の位置、刻まれていた文、鈴の形状、声の記録。

 すべてを書きつけるうち、手が震えて止まらなくなる。

 書くたびに、あの声が蘇るのだ。

 ――帰れ。

 だが、どこへ? 誰のもとへ?


 そのとき、ふと気づく。

 “帰る”という言葉には、必ず“行く先”がある。

 死者の穴が「帰れ」と言うのなら、そこは単なる墓ではなく、

 “もうひとつの生”の入口なのかもしれない。


 私は鈴を耳にあて、目を閉じる。

 雨の音が遠ざかり、代わりにあの人の声が胸の中に響く。

 〈愛の裏側にある出口〉

 その言葉が、鈴の内側でかすかに光を放ったように思えた。


 ――死者の穴は、心の底に通じている。

 それが今夜、私の得た唯一の確信だった。

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